米軍3飛行士慰霊式典 命の大切さを訴える

 4月15日は、76年前に起こった石垣島事件の日。この日、午後2時半から冨崎唐人墓に隣接する3飛行士慰霊碑の前で、米軍3飛行士慰霊碑期成会(識名安信会長)による米軍3飛行士慰霊式典が開かれ、小雨まじりの中、石垣市長、石垣市議会議長など十数名が参集して、3飛行士の冥福を祈った。

 冒頭、ルシア並里輝枝司祭による記念祈祷がおこなわれ、ヨハネによる福音書25から26が読み上げられ、参加者は司祭とともに祈りの言葉を唱えたりしながら、ティボ中尉、タグル兵曹、ロイド兵曹3飛行士の名をあげながら、限りない愛と恵の神による導きをお願いしていた。

 祈りの後、アメリカの国歌が流され、黙とうがおこなわれた。

 主催者挨拶では、米軍3飛行士慰霊碑期成会会長で株式会社信用組の識名安信代表取締役が

「3飛行士が生きていらっしゃれば、ティボ中尉が104歳、タグル兵曹100歳、ロイド兵曹96歳で、本来ならばジュネーブ協定で捕虜の身分は保障されなければならないところ、ティボ中尉とタグル兵曹は軍刀で惨殺され、ロイド兵曹は多数の兵に殴打されて刺殺された。午前9時に捕らわれ、午後10時に殺害される間、三名はどういった気持ちでいたのか。恐怖心でいっぱいだっただろう。どういった気持ちでこの世を去って行ったかと思うと、胸が痛む次第でございます。」と、しばらく胸を詰まらせたあと、

「このむごい戦争が終わり、2年経った1947年に刺殺に関わった46名が拘束され、上官の責任をあやふやにしたまま41名が絞首刑の判決が出て、2度の再審で7名が巣鴨で処刑された。その中に、唯一下級兵士であった藤中氏が、高級下士官とともに処刑された。拘束されたときに、上司の命令でやったことを、上司をかばって言わなかったために、共謀と見なされ、生死を分けてしまった。家族に当てた遺書には、戦争絶対平和、世界平和の恒久平和が書かれてあったといいます。」

 さらに言葉をついで、
「1945年4月の米軍の沖縄本島上陸の極度の恐怖心や戦士した戦友の仇討ちをするという報復の応酬が生んだ戦争の悲劇により、28歳で命を絶たれた藤中氏も戦争の犠牲者であった言っても過言ではないと思う。ティボ-中尉と同じ28歳。妻が居て子どもが2人いて、・・・」

また、
「私たちは平和の中に生きています。この平和も七六年前の悲しい歴史の上に成りたっている。そのことを決して忘れてはいけない。藤中氏の絶対平和の言葉、世界の恒久平和は、私たちは受け止めていかなければならない。」
 と、反戦平和を誓っていた。

 このあと、当初出席予定がコロナ禍でまん延防止重点措置に沖縄が指定されたため、欠席となった沖縄駐在領事館のロバート・ケプキ氏からの書簡が読み上げられた。

 中山義隆石垣市長と平良秀之石垣市議会議長の挨拶の後、石垣市長が代表献花をしたあと、全員が献花して、3飛行士の祭壇を花で満たしていた。

 最後に、司会者が「戦争を知らない子ども達」のフォークソングを流して、戦争を知らない人が現役世代のほとんどとなった現実を、いかに自覚しながら、恒久平和を希求するか、そのことの大切さも訴えていた。

 今年で20年目となるこの石垣島事件の慰霊式典は、憎悪と憎悪が生む戦争の悲惨さを多くの人に伝え、戦争を二度と起こしてはならない意志を、内外に示してきた。

 隣国が全体主義で、自由な意見が言えない国民でなる大国である現実は、認めなければならない。
 
 ウイグル人の収容所に関し、人権問題で欧州や米国から批判されている中国が、再教育使節と称してはばからない異常な感覚は、今後の世界との接し方に如実に露呈することは明白。

 識名氏は、「命の大切さを訴えていくこと。これが大切だと思う」と、述べていた。


 
 (流杉一行)

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