<日曜の朝に>藤吉浩次細崎公民館長に聞く

●島を花いっぱいに

細崎公民館長の藤吉浩次さん(60)を訪ねて、驚き感心したことが二つある。

一つは、今年の公民館長就任が10回目であるというのである。細崎に移り住んだのが1990年(平成2)だから、27年間のうち公民館長を10回、である。

もう一つは、「島を花いっぱいにする」という夢の話。
じつは、『月刊やいま(当時=情報やいま)』2001年8月号の小浜島特集で藤吉さんを取材したことがある。16年前。そのとき藤吉さんは「島を花いっぱいにするのが夢」と話されたのだが、今回の取材でもまったく同じ発言が出てきたのである。夢は持続していた。

「竹富島に負けたくないという夢があるんですよ。25歳の時に初めて竹富島に行った。その時の衝撃は一生忘れませんね。白砂の道に、集落には花がいっぱい。ほんとにキレイな島だと思いました。竹富の上勢頭公民館長と酒を飲むと、いつか竹富を追い越すからよと言っているんですよ(笑)」

「まず細崎を中心に花いっぱいにし、花の好きな仲間を集めて、それから小浜島全体を花いっぱいにしていくというのが僕のいちばん大きな夢ですかね。きれいな花の隣は自然とキレイにしたいと思うようになりますからね」

細崎公民館は、赤い羽根共同募金の助成事業の助成を受け、この10月から海岸に花の植栽事業を始めることになっているという。まず夕日スポットで有名な集落前の海岸を花いっぱいにしようという計画だ。

さて、ところで藤吉さんはどうして細崎に住み着くようになったのか。細崎という集落がどんなふうになっていってほしいと思っているのか。いろいろ聞いた。

●小浜島へ

藤吉さんは1957年(昭和32)福岡県久留米の生まれ。九州産業大学芸術学部デザイン科に入学したが、「ギターにハマって」歌手を目指した。先輩に甲斐バンド、武田鉄矢、チューリップ、同期に長淵剛、1期下にチャゲ&飛鳥などがいた。

「ヤマハのポピュラーソングコンテストの九州大会に4度出たけど、長淵に持っていかれ、チャゲ…に持っていかれ、クリスタルキングに持っていかれ、けっきょくつま恋の全国大会には行けなかった」

ヤマハ財団から声がかかった。「小浜のはいむるぶしに歌の仕事があるが行ってみないか」。初めての沖縄。初めての小浜島。1982年、25歳。星はきれいだったが、「寂しくて寂しくてホームシック」になった。

が、その後、1か月契約、3か月契約、と福岡と小浜を8往復。「青い海、満天の星、ダイビング、ウインドサーフィン…、島の友だちもできて、おじいおばあの優しさを感じて」1年契約を決めた時に小浜島に永住しようと決めた。30歳だった。

1年の契約が切れた(つちだきくおさんに引き継ぐ)ときに、「学校の先生の話が舞い込んできた」。小浜小中学校で音楽、美術、技術家庭を教えた。子どもたちと花づくりに励んだ。「とても楽しかった」。

5年間臨時教員をやった。さらに黒島で教員をという話もあったが、「結婚したばかりで、動物もいっぱい飼っていたので」島に留まった。

その後、3年間はいむるぶしで、やはり花づくりと蝶や動物の管理をやった。
2005年からはヤコウガイ、タカセガイなどを加工してつくったペンダントやキーホルダーなどの商品をつくり、現在では島内、石垣島の空港などで委託販売している。

その間、ひとりで家を建て、今でも月に4、5回はつちださんのピンチヒッターではいむるぶしの舞台で唄を歌う。

●細崎集落の現在と未来

細崎の集落は、明治の末期に糸満からの海人が中心になって移住してできたといわれる。大正の半ばに鰹節工場が建てられ、大正15年(1926)には13の工場が林立し、60戸300人が住んでいたという。

現在の細崎は、38世帯89人(竹富町役場2017年3月調べ)。藤吉公民館長によると、そのうち元々の住人は約10世帯で残りは新住民。はいむるぶしの従業員が8世帯あるという。民宿、ダイビングやシュノーケルなど観光関連の業種が増えた。「僕が入ってきた頃はサービス業は僕だけで、あとは海人だった」というからずいぶんな変わりようではある。

100年余り前にできた歴史の浅い集落で唯一継承されてきた行事がハーリー祭。しかし藤吉さんが移住してきた1992年には中断していた。「やりましょうよ。私も手伝いますから」と申し出た。

藤吉さんは、案内状出し、プログラムの制作、買い出し、司会…、なんでも引き受けた。「だから、終わった時はもう1日2日動けなかったですよ」。

1993年に復活したハーリー祭は近年ますます賑やかになっている。
「学校の教え子たちは今35から39歳。彼らが何名か帰ってきてくれて、4年前くらいからかな、今では僕の仕事は賞状を書くくらい」だという。

「そういうことがとても嬉しいですね。はいむるぶしの若者たちには赤ちゃんが生まれて、去年3人、今年も3人ですよ」

村が若返りつつある。したがって、これからのいちばんの課題は、住宅を増やすこと。町営住宅も欲しいし、灯台近くの町有地には4世帯の住宅がつくれるはずだ。

「子どもたちが帰ってきても住めるように。また、新しい人も大歓迎。ここはもともと海人たちがつくった新興部落ですからね。受け入れ態勢がある」という。

課題がもう一つ。国と町の助成でつくられた「海家」。漁業振興の目的で、海産物の加工販売や海の自然体験などに活用しようとつくられた施設だが、まだまだうまく活用できていない。

しかし藤吉館長はあまり心配していない様子。なにしろ若者たちが育ってきたから。

「先輩たちの教えを大事にしつつ、これからは若者中心に新しいものを創り出してほしいと思いますね。家にいて独りでテレビを観たりスマホをやったりでは心は磨かれない。地域住民が集まることによって活性化する、そんな集落であってほしい。また、今後も観光などサービス業で成り立っていくと思うので、集落を花いっぱいにして観光客を迎えてあげようという集落であってほしい」

10月には、町役場に町営住宅の要請にいく予定である。

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