<日曜の朝に>前上里徹伊原間公民館長に聞く

今年4月に伊原間の新公民館長となった前上里徹さんは、1957年(昭和32)伊原間生まれの60歳。この3月に黒島小中学校長を定年退職したばかり。

プロフィールを簡単に紹介すると、
明石小学校から伊原間中学校を経て八重山高校を卒業。琉球大学を出たあと教員の資格を取り25歳のときに本務となって黒島小中学校で教員生活をスタートさせた。

その後八重山各地の学校を転々とし、教育事務所、竹富町教育委員会の行政職も経験した。教頭として久部良小学校、宮良小学校、登野城小学校、校長として母校明石小学校、竹富小中学校、そして黒島小中学校で退職した。教員生活35年。

「伊原間に新しい家を建てた後に久部良に転勤、あちこち移動しましたので、(伊原間)地域との関わりは薄かったですね。それだけに定年後はお役に立てたらと思っていました」

2014年(平成26)12月31日現在の伊原間の人口は、96世帯、195人(男97・女98)。保健所、診療所、消防署、農協、郵便局などが置かれ、石垣島北部地区の拠点としての役割を果たしてきた。

前上里公民館長の思い出で、伊原間のむかしと今をたどってみた。

●明石小学校

ちょうど小学校入学のときに、北部地区の中学校(伊野田・伊原間・明石・平久保・野底)が伊原間中学校に統合され、伊原間小学校がなくなったので、伊原間の子どもたちは明石小学校に通うことになった。

中学校にはスクールバスがありましたが、小学生は定期バス(東バス)で通いましたね。1学年25~27人ぐらい。伊原間よりも明石の子どもたちが多かったです。

入学して驚いたのが沖縄方言ですよ。明石は沖縄からの入植ですから、子どもたちも沖縄方言を使うんです。伊原間は元々からの集落なので四ケと似た方言をつかいます(とくに真栄里の方言に似ていると聞きました)。伊原間にも沖縄の人が何人かいましたが、ちょっと聞くぐらいでしたからね。

ウチも農家なので山羊の草を刈ったり、畑に親の手伝いに行ったり、お芋を掘ったりしましたが、明石の子どもたちの方がもっと農業を知っていましたね。例えば鎌の砥ぎ方にしても上手でしたよ。

明石の皆さんは開拓で来て、父親母親が頑張っているのを見ていますよ。子どもも(働き手の)数のうちに入っていたと思います。とても苦労したんじゃないですかね。

あの頃は保育所も幼稚園もなかったですから、学校に行くのが何より楽しみでしたね。仲間も増えましたし。学用品は大事に使いました。

みんなそんなに生活が豊かではなかったので、遠足、運動会のときのお昼のお弁当が楽しみでしたね。たしか3年か4年の頃に明石小学校は完全給食になって(これは八重山でも早い方だと思います)、給食も楽しみだった。

昼休みには、学校のすぐ側の小川でテナガエビを捕ったり、時季になったらトムル岳にのぼってシークァーサーを取って食べたりとか、今では考えられないことですよ。

年に何回かは仲間と一緒に伊原間まで歩いて帰りました。山の東側の麓を歩いて帰ったこともありましたよ。1時間以上かかりましたね。牛もいたので、よく事故に会わずにすんだと思いますね。

小学校時代は山に行ったり、海に行ったり、勉強はしないで遊んでばかりでしたね。ゴムカンをつくってピース(ヒヨドリ)とかアオバトとかを撃ち落としたり、罠を仕掛けて鳥を捕ったり。

夏休みには大浦川でエビを捕ったり、セミを捕ったり。セミは食べましたよ。香ばしいですよ。胸のところ、意外と肉ありますよ。

海では魚釣りをよくやりました。アーマン(やどかり)やシャコ貝を餌にして、ツンブク(竹の種類)の先から糸を垂らして。フクルベーなどは引きも強くて楽しみだった。お腹に赤黒い丸の模様のついたヒノマルいう魚もよく釣れた。

お正月の楽しみはお年玉。みんなであちこち回った。あの頃は「よく来たね」という感じで、5セントとか10セントとかいただいた。10セントもらったら、それこそ大きなお年玉でしたね。お正月の2日と3日は街に行くと決めていたんですよ。子ども同士。これは親も認めていました。

●伊原間中学校

中学時代の思い出は部活とアルバイトですね。
小学校から野球をやっていましたが、中学校でも部活は野球でした。あの頃はスポーツと言うと男の子は野球ですよ。私は伊原間中学校の7期生。ふたつ上までは強かったんですが、しかし私の時代は弱かったですね。

女の子はバレーボール。私の姉の時代は県大会で優勝(1967年)していますし、妹の時代も強かったですよ。平良さんという地域の指導者がいたんですね。

中学校には歩いて行けましたから、伊原間の子はスクールバスに乗る機会がない。ですから、新人戦とか中体連の陸上とかのときにスクールバスに乗るのは楽しみでしたね。

大会だったり練習試合で四ケに行くのは小学時代とは比べられないくらい増えたんですが、自分たち仲間で遊びに行くのは月に1回あったかどうか。映画を観て、そばを食べて帰ってきましたね。

1ドルあればおつりがきましたね。バス賃が16セントだったかな、往復で32セント。映画が25セントですよ。そばが15セントくらいかな。それでもまだ18セント残る。

中学生になってからは親からお金をもらうのではなくて、アルバイトをしてお金を貯めてましたね。あのころパインの全盛時代でしたから、日曜日になると声がかかるんです。

沖缶の農場のアルバイトが多かった。パインの草を取ったり、収穫したり。手間賃は1日1ドルくらいでしたか。(祖国)復帰は高校のときだから、あの頃はまだドルをつかっていましたね。

●村の行事

私の小学生の頃はまだ中堅どころの人たちも多かったんですが、中学・高校の頃には働き盛りの人たちの多くが島を出て行って、村の行事もだんだん寂しくなりましたね。復帰の前後ですね。

伊原間はずっとサトウキビが中心でしたが(パインブームの時はパインも)、干ばつ、台風がつづいて農業ではやっていけなかったんでしょうね。今のようにスプリンクラーがないから日照りでは植物は育たないし、台風が来たらやられるし、人間の力ではどうしようもないですよね。それに復帰が重なって、島を出て行った。

それでも行事は欠かせないですから、細々でもつづけなければならなかった。お盆翌日の16日にはイタシキバラで獅子を出しますが、中堅どころが少なくなった時期には獅子をお母さん方が被ったという話も聞きました。

お盆には、中学1年までだったか、アンガマがあったんですよ。四ケと同じようにンミとウシュマイがいて問答のやりとりもありましたよ。地謡が何名かいて、ファーマーはクバ笠を被って、各家庭を回りました。

ウークイの日は遅くまで起きて、仏壇に供えられたクーガーシ(粉菓子)や果物を食べるのが楽しみだった。バンシル、シークァーサー、パイン、サトウキビ、シマバナナ、だいたいここにあるのでやっていましたね。のちに、スイカ、メロン、マンゴー、なども供えるようになりました。

豊年祭も楽しみでしたね。
子どもたちは太鼓、ションコを打ちましたが、いつか旗頭を担ぐのが憧れでしたね。女の人たちは集まってスウ(ミズナなどの野菜でつくる酢の和え物)をつくり、ミシ(神酒)をつくった。

カサヌパムチ(芭蕉の葉で包んだ餅)は各家庭でつくりました。父親と一緒に平久保に芭蕉の葉を取りに行きましたよ。馬車だったか車で行ったのか、平久保には芭蕉が多かった。

菊祭り(旧九月九日マチリ)のときは、各家庭から酒や料理を持参して御嶽にお供えして、その日はお酒に菊の葉を浮かべて飲んで、ドウパダニガイ(健康祈願)をする。菊の葉がないときはヨモギをつかいますね。

他にも、旧三月三日、十五夜などいろいろあります。
このところ伊原間は、新しい人たちが移住してきて人口が増えています。それで行事もできる。元々の伊原間の人たちだけだったらほんとに寂しい村になったと思います。

●伊原間の現在

伊原間はむかしからの集落であるという自負はあります。そういう意味で守っていくものもあるし、北部地区の拠点としての思いは強いですね。

しかし現実は、住民のうちの半分以上は他地区から移住してきた人たちです。彼らのおかげで村に活気が出て、神行事も祭りもスムーズにできるようになった。村に溶け込んでいる人も多く、これは自慢できますね。

新しく移り住む人たちには広い土地を手に入れるのが難しいですから、ダイビング、レストランなど観光・レジャー関連の職業の人が多いですね。海ぶどうを栽培している人もいます。

ただ、引っ越してきて公民館の会員に入ってくれたのに、一部脱会する人もいるんですね。公民館作業など面倒なこともあるかもしれませんが、ここは足並みを揃えてどう一緒にやっていくことができるか、そこが課題ですね。

今年は8月13日が豊年祭です。当日は沖縄本島から郷友会の人たちも集まりますし、石垣在の伊原間出身者も参加します。祭りの1か月ほど前から練習を始めるんですが、旗頭にしても踊りにしても、新しく移り住んだ人たちの協力が必要ですね。

ほんとに子どもが少ない時代もありましたが、小学1年生がいまは4、5人いますよ。伊原間だけで。これからは子ども会活動も活発にしていきたいですね。

今から20年ほど前の子ども会は定期的に集落内の道路の清掃をしたり、成人式、敬老会、豊年祭などのときに出し物を出したり、行事が賑やかでしたね。あのときの子ども会育成会の会長さんは多宇さん。育成会も一生懸命でした。

フナクヤハーリーは年々賑やかになってきますね。平良さん親子や奥さんの八重子さんたちが中心になって北部漁友会が始めた(以前はハーリーは伊原間にはなかった)ものですが、今は公民館の祭事としても位置づけられています。

まだ公民館長になって3か月ですが、これからお年寄りとの触れ合いをつくっていけたらなあと思っています。公民館の組織は、婦人会、子ども育成会、老人会があるんですが、今、老人会の会長が生まれなくて、休会中なんですよ。

今度、高台に消防と派出所が新築されます。他の公共機関も多いですから、北部地区の拠点となると思います。もっといろんなことを発信できるだろうし、北部地区の発展に寄与できたらと思っています。

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