<日曜の朝に>上勢頭芳徳さんのこと

3月22日、上勢頭芳徳さんがニライの国へ?旅立たれた。いずれは誰もが旅立たなければならないのだが、73歳というのは早すぎる、と思う。

24日11時半から竹富島の喜宝院で告別式がおこなわれた。夏のような日差し、雲ひとつない抜けるような青い空が広がっていた。大勢の人が弔問に訪れた。そよ風が吹いていたのかあまり暑いという感じはなかった。

「フレーーー、フレーーー、ヨ・シ・ノ・リ!」「フレーーー、フレーーー、ヨ・シ・ノ・リ!」。式の終りに、進行役の男性の、息の続く限りに伸ばした「フレーーー」の語尾が高い空に吸い込まれていくようだった。

芳徳さんの三三七拍子。
大塚勝久さんの「おきぎんふるさと振興基金助成」祝賀パーティーで、「最後は上勢頭芳徳(竹富島・喜宝院蒐集館館主)応援団長の、張りのある音頭で三三七拍子で手締」(月刊やいま1994年10月号)というように、かなり有名だった。

だから、「2016年3月11日、病気療養中の上勢頭芳徳さんが6カ月ぶりに竹富島へ一時帰島。竹富小中学校の体育館では子どもたちが、病いに打ち勝つようにと激励会を開催した」ときにも、「可愛がってもらったという生徒会長の三浦良太君(中2)は『フレー、フレー』と芳徳さんお得意の応援団の動きを真似してエールを送った」(月刊やいま2016年8月号)のだ。

霊前に「上勢頭芳徳『月刊やいま』掲載記事」の綴りを供えさせてもらった。
芳徳さんが『月刊やいま』に寄稿したものがほとんどだが、芳徳さんを紹介した記事もいくつか。合せて160件余り。

ほんとにお世話になった。せめてものお礼に、それらの記事の中から、以下に、芳徳さんの足跡や言葉を記録しておきたい。

芳徳さんの旧姓は村下芳徳。1943年10月24日、長崎県生まれ。大阪の学校アルバムを作る会社に勤務し、アルバム制作で賞を受け、その賞金をもとに海外を旅する。旅の終りに竹富島を訪れ、1974年5月15日竹富島移住。30歳だった。

「大和からの移住者は遊民に見えたのか冷たく感じたものですが、今にして思えばその厳しさは、本気で住もうとしているのかを試されていたのですね。土地の人たちが営々と築いてきた、どだい文化も伝統も違う所へ入り込んで来るのですから、そのためのモラトリアムなのです。以前もそんな人たちがかなりいて結局住めないで出て行ったようですが、私は幸いにして鈍い方なので風にも耐えられたのでしょう。子ども会活動や買占め企業の侵出阻止に、竹富島の人たちががんばっているのに感激してのめりこんでしまうのですが、情報の収集と発信という黒子に徹して、旗振り役はしませんでした。他所から来た者が旗を振ると、その運動自体がうさんくさくなるというのは、さすがに鈍感な私にでも分かることでしたから」(月刊やいま2007年11月号)

「世の中には場違いのところに生れて来る人もあるものだ。それゆえに自らを密着させうる永遠な何ものかを求めて遠く出かけ、ときとして人は運よく自分の故郷と感じられる場所にめぐりあうこともある。自分の最も望むことをすること、自分の心に好ましい状況で生活すること。この4年間、これらのことに意義を感じて生活してきた」(1978年3月、竹富中学校卒業アルバム)

芳徳さんは子どもたちとすぐに親しくなった。探検隊ができた。
上勢頭輝さんが言う。
「ムラさんを隊長と呼んでいました。隊長は僕らを連れて、星座や、星が見える時期と農作物を植える時期が一緒ということを教えてくれました。西桟橋の近くにあった朽ちかけた船の中の探検や、大きなガジュマルの木登り。夕方の海に投網を持って泳ぎに行ったり、ペットボトルをつなげてイカダを作っては、海にたどり着く前に壊れたり。チャンバラの剣の作り方や、薬草の効果も教わりました」(月刊やいま2016年8月号)

芳徳さんが上勢頭同子さんと結婚したのが1984年。それから上勢頭姓を名乗るようになるのだが、それまでは芳徳さんは島の人からムラさんと呼ばれていた。

当時のムラさんが島に残したものがある。手作りの卒業アルバム。
そのアルバムとムラさんのことを『月刊やいま』2016年8月号が特集している。「竹富島の手作り卒業アルバム」。以下は同誌からの引用。

「昭和49年度から52年度までの竹富島の卒業生たちは、撮影から現像、プリント、編集、レイアウトに写真の貼り付けまで、すべて手作りという素敵なアルバムを持っている。写真を撮影し、アルバムを制作していたのは上勢頭芳徳さん(当時は旧姓村下、通称ムラさん)。40年前のそのアルバムを開くと、当時の懐かしい情景とともに、ムラさんの子どもたちや島へ対するあふれんばかりの愛情が、どの写真からも伝わってくる」

その写真について、
49年度のアルバムを一緒につくった入里照男さんは、「僕が平真校へ異動した後、ムラさんが一人でアルバムづくりを続けていた写真、どんどん、いい写真になってるね。子どもたちと日常的に触れあってないと撮れない、いい写真だよ。みんないい顔してるし」
写真家の大塚勝久さんは、「子どもが大好きで、写真を見ても子どもたちの前へ一歩も二歩も踏み出して撮っているのがよくわかる」と評し、
奥さんの同子さんは、
「芳徳は『命の尊さ』をカメラを通して見ていたのだと思います」と語っている。

芳徳さんはアルバムに子どもたちへのメッセージを残している。

「変わりゆく世の中で、ひとり八重山だけ竹富だけが変わらずに、というのは理のないことでしょうが、あまりにも急激な変化は精神的、物質的にもひずみを生じるでしょう(略)美しいということときれいということを混同してはいけません。かんじんなことは心で見なくてはよく見えないってことです」(1975年幼稚園卒業アルバム)

「顧みるに復帰3年目の1975年、世はまさに変動のあけくれ。象徴的には海洋博、CTS問題。身近にはあふれる観光客と復帰のどさくさにまぎれた土地問題が混迷の度合いを増幅した。まだ続くであろうこのカオスの中で我らはいかに自己の存在を位置づけるか」(1976年3月中学卒業アルバム)

「復帰後5年、あふれる観光客に混迷の度合いを深めつつ変容する竹富島。時が経ち、いつかコンドイの碧い海が何であったのか思いあたるとき、私たちのこのことの意味もわかってくるだろう」(1978年3月中学校卒業アルバム)

そしてその後、竹富島は、
1986年、「売らない」「壊さない」「汚さない」「乱さない」「生かす」の竹富島憲章を制定し、
1997年、文化庁から重要伝統的建造物群保存地区(町並保存地区)に選定された。
竹富集落景観保存事務局長をつとめた芳徳さんが発揮した「縁の下の力持ち」は誰もが認めるところである。

芳徳さんは書いている。
「復帰後竹富島での一番大きな出来事は、沖縄県で第一号の重要伝統的建造物群保存地区に選定されたことでしょう。当初は行政の理解も得られず孤立無援だったのですが、地域に根ざした住民運動は共感を呼ぶのですね。マスコミが好意的に取り上げてくれ、全くの住民運動で勝ち取ったものです。あの滅多に褒めることをしなかった友寄さんから『竹富島の町並み保存は、沖縄の住民運動の中で人頭税廃止運動以来の成功例だ』と言われたときには、誰から評価されるよりも嬉しいことでした」(月刊やいま2007年11月号)

芳徳さんには『月刊やいま』に2度(1998年、2007年)特集を執筆していただいた。いずれも竹富島の将来についての論考である。その中から文言をいくつか紹介する。ふたつの論考を比較すると時代と島の変化を読み取ることができる。

町並み保存制定の翌年、1998年6月号「特集 21世紀・竹富島物語 島の将来を考えるための7つのキーワード」から。

町並み保存について
「伝統的な家のつくりは家庭行事や祭事を行ったり、縁側コミュニケーションでストレスを解消するのに最適な構造になっています。長い間の生活の知恵の塊です。町並み保存とは何も観光用とかTV用に赤瓦の家を残しているのではなく、本当の豊かな暮らしができ、少しは長生きできる方法を学ぼうということが究極の目的です。歴史的な家並みの中で、精神的な支えとしての祭りや、伝統的な手仕事が継承されていてこそ意味があります。まちづくりというのは、まさに歴史の審判に耐え得るようなものでなければならないでしょう」

世界遺産について
「竹富島憲章を制定して、保存の方向性を明確に表明していること。それに集落の保存地区指定だけでなく、島全体のリーフまでのイノーの部分も歴史的景観地区として指定して緩衝地帯も確保していることです。そしてここにきて花城・久間原遺跡群が脚光を浴びてきました。現在の町並みと中世の遺跡群を合わせたらずっと深みが出てきます」

観光について
「竹富島の観光は、戦後島を訪れた民藝関係者や民俗研究家らによって種がまかれていきました。破壊されないでよく残されている自然景観、風土にあった集落のつくり、何よりもそこで行われている自然の素材を使った民芸品作りと、伝統的な祭りの継承が来島者の心を引いたようです。(略)こんなにして始まった竹富観光だから、きちんとした観光地づくりをしていこうというのが基本姿勢となっています。『竹富島憲章』を制定したのも島民の意志の現れといえます。おかげでバブル企業の侵入という影響もうけなくてすみました。せっかく島民がこつこつと築き上げてきたのに、甘い汁を吸おうというのは甘いよ。許せない」

「観光は良い仕事です。わざわざ出かけなくとも、海の彼方からお金と情報がもたらされます。アンテナを張り巡らせておけば、居ながらにして生の情報を得ることができます。せっかくの良い仕事だから客に媚びることなく、きちんとして持続可能な観光を目ざすべきです。観光業者と観光をやっていない人達が離反しないようにと、観光業者は公民館に観光税ともいうべき協力費を納めるという、竹富ならではの制度をすでに14年前から実施しているような知恵を持っているのですから。竹富島から観光の仕事が無くなったら、一体人口は何人になるでしょうか。どこにでもあるような所に成り下がってしまって、行くべきほどの島でもなくなってしまった、といわれるようになった時が島が自滅するときでしょう」

そして、その9年後の2007年4月号「特集 竹富島の行き方・竹富人の生き方」から。ランダムに。

「限度を超える観光は質の低下を招き、その結果として自然を破壊し人心が荒廃していったのは、全国各地に見られることです。その中でひとり竹富島だけは問題を内包しながらも、住民自身の手によって解決の方法を見出していこうと努力して、一定の成果を挙げているところです」

「それにしても42万人というのはいかにも多すぎます。数が多くなると質が低下するというのは目に見えています」

「竹富島は人口361人(06年10月調べ・15年連続増加中)という小さい島ながら、国の指定を7つも持っています。1、島全体が国立公園 2、集落域全体が町並み保存地区 3、種子取祭が重要無形文化財 4、ミンサー・上布が伝統的工芸品 5、夕日の名所・西桟橋が登録有形文化財 6、集落を展望できるなごみの塔が登録有形文化財 7、蒐集館の収蔵展示品が登録有形民俗文化財というようにです。そんな島をベルトコンベアーに乗せられて、短時間で通過していく観光をやっていたら、島は疲弊していきます」

島に住むということは「あのおぞましいアメリカ支配の、経済原理至上主義から一歩離れた生き方です。それでも霞を食って生きてはいけない。生活を維持していくための収入を得る、程よい間隔で接することができるのがいい観光です」

「今を生きることは大事なことですが、次世代が生きるためにも物欲を抑えることが大事です。基本的に人間の生き方、地域の行き方の問題です。これまでも問題はいつの時代にもあったことでしょうし、今もあります。先人が”うつぐみ”とズンブン(知恵)で解決してきたことですから、今の世代でできないということはないはずです」

「現在どんなに良いような地域づくりができているように見えても、それが次の世代へ引き継がれていかなければ意味がありません」

「学校では30年前に、地域と一体となって勤労生産学習の方針を打ち出しました。それが次第に実を結び、平成元年に全国鳥獣保護実績発表大会で文部大臣奨励賞を受賞したのを皮切りに、ソニー賞など以後続々と成果が上がっていきました。国の指定を7つも持つような島をつくり上げてきた大人のがんばりを、子どもたちも見ていたのでしょう。学校と家庭と地域社会が一体となった、まさに学社融合の典型をみる思いです。こんな子どもたちが教師となって八重山に、竹富に帰ってきてくれればと願っています。なにせ教師という仕事はこんな厳しい時代でも、地域文化を再生産して伝えていける場面があるからです」

「地域社会というのはそんな人々の生き様が、『島とぅとぅみ、国(フン)とぅとぅみ』代々にわたって引き継がれていくものですから。だから先祖から受け継いだ土地を商品化して売り飛ばすと、帰って来ようにも来られない状況となってしまうのです」

ほんとに芳徳さんは竹富島が好きだったんだなあと思う。
2010年から11年には竹富公民館長も務められた。竹富方言で立派に挨拶もされていた。
きっと芳徳さんは誰よりもほんとうの竹富人になったんだと思う。

大塚勝久さんが次のように書いている。(月刊やいま2016年8月号)

「人間、生まれてくるところは選べない。でも、住むところ、死ぬところは選べるよ」
ムラさんが僕にいつも言うセリフ。ムラさんが、いかに竹富島を愛しているかがわかる。気持は僕も一緒なので、そのたびに固い握手をする。

 
>竹富島・上勢頭芳徳さん追悼(月刊やいまに掲載された過去の記事掲載中)

この記事をシェアする