陸の孤島、奥西表などと呼ばれる船浮集落。西表西部のバスの終点白浜から船浮湾を船で渡らなければならない。しかし「こんなに便利なところはない」と池田トシ子公民館長はおっしゃる。いろいろお話をうかがって、便利とか不便とか、大きいとか小さいとか、遠いとか近いとか、そんな基準にどれほどの意味があるのか、考えさせられた。
船浮の今年1月末の人口は51人(世帯数31、男27人、女24人)。船浮小中学校新年度の生徒数は5人(小4・2人、中1・1人、中2・1人)。
「民宿が3軒、食堂が3軒、観光業が中心で、真珠会社に地元の人が1人務め、他からやってきた3人が寮にいて、あとは学校の先生(5人)」
「豊年祭、節祭、学校の運動会、音まつり、月1の地域清掃。大きいところと同じような行事をこなしていけるのは、みんなの協力があるからだと思います。学校の先生方は公民館の行事にみんな協力するし、学校の行事には公民館が全面的に協力します」
「船浮音まつり」。「島の人よ」のヒットで一躍有名になりメジャーデビューした池田卓がスタートさせた音楽イベント。毎年500人余りの観客を集めて賑わう。11回目の今年は4月15日(土)におこなわれた。ちなみに池田卓は絶頂期の2011年に故郷の船浮に活動の拠点を移している。
公民館長は、じつは池田卓のお母さん。
まずは「船浮音まつり」の話から。
●「音まつり」の様子とその効果を教えてください
「何百人の人を迎え入れる情熱というか、少ない人数ながら、みんなが3日間(前日の準備、当日、後片付け)、朝早くから夜遅くまで頑張ってくれて、並大抵のことではないと思います。ほんとにどこにもないことだと思いますよ」
「ちょうど年度の初めでもあり、新しく来た人たちとシマの人を結びますし、集落の絆を強める役割もはたしています」
「売上から公民館と学校に寄付をいただいています」
「船浮を知ってもらういい機会になっているのだと思います。隣の集落から、石垣島、沖縄本島、本土からも多くの人が駆けつけてくれるのはありがたい。船浮という一つの点から線があちこちに広がって行って、そうして輪ができるといいなあと思っています。それによって地域も潤うし、竹富町全体も潤っていくと思います」
●他に船浮に必要なものは何ですか
「学校の存続ですね。公民館としてもそれがいちばん気になります。船浮の学校を出てみたいなあという子、ここで学校教育を受けさせたいという親がいたら、いいなと思います。そのためにも、多くの人が船浮を訪ねてくれて、船浮の良さを知ってもらわなくてはと思います。小さい学校だからこそ教育を受けさせたいという親はたくさんいますよ」
「鳩間のように山村留学も考えました。でも、子どもたちの面倒をみてくれる人がいるか、受け皿がまだできていないのよね」
「多くの人が来てくれたら民宿も増えて、そこに働く人も増えて、子どもが増えて、というのがいちばんの希望です」
「卓の後輩たちのなかにも、戻ってきたいけど仕事がないから戻ってこれないという人が何名かいるようですよ」
●卓さんが帰ってきてどんなお気持ちですか
「やっぱりホッとしますね。自分たちの仕事の跡継ぎでもあるけれども、シマを守ってくれるという期待もあります。私たちの代はしっかり守ってきましたから、今度はその次を守って欲しい」
「行事の中で、三線を弾くことがわりと多いですよね。今までは戸真伊(亀吉)さんをずっと頼りにしていましたが、ちょうど元気なうちに卓が帰ってきて、行事の歌のバトンタッチができて地域としてもホッとしています」
「地域のためも考えて外へ出て音楽活動をやっているようだけど、親としては、もうちょっとここに足をつけて、地域で、もっと細かいところまで目配りして、もっとやれるんじゃないかと思っている。親から見たらまだまだ足りない。まだ60%かなあ」
「(民宿の)お客さんで『卓くんのトークにいつも勇気を与えてもらっている』という人が何名かいた。どんなトークをしているのかわからないけど、ま、この子の歌や言葉でそれができるのならそれもいいかなと考えることもあるわけ」
●10年後の船浮を想像してみてください
「今の頑固オヤジの世代と変わって、ちょっと自由なカラーに変わってきているかな。この子たちはオープンだから」
「克史さん(卓さんの従兄)、井上の息子さん、卓たちが頑張って、仕事が増えて、若い人たちがもう少し増えていて、学校の生徒も増えて、『未知の船浮』から脱出していると思いたいですね」
さて、ここで時代を遡って、池田トシ子公民館長の来し方を簡単に紹介すると、
「干立で生まれて、西表小中学校へ通った。200名くらい生徒がいて、学校は楽しかった。あのころ浦内橋もまだなかったし、子どものころは祖納・干立がすべて」
「高校進学で石垣へ。家が稲を作っていて現金収入がないので、家庭教師、さとうきびやパインの草取りなどのアルバイトをやりながら高校を出た」
「大学もお手伝いさんをしながら自分で学校を出た」
そして、船浮校の教員として赴任したときに池田米蔵さんと結ばれた。
●ご自分で船を運転して通勤したという話が伝説になっています
「最初はいろんな目に逢いましたね。途中でエンジンが止まって2時間かかって漕いで戻ってきたこともあるし、沖に出てしまって、竿でここの岬まで渡って、浅瀬から漕いで帰ってくるとか、1回は8時頃船を置いて、ずっと泳いで帰って来た時もありました」
「風速6メーターの時に乗ったら、(波の)うねりとうねりの間にスクリューがダタタタターと空回りして、近くのブイにぶつかりそうになって、ああ終わりかなあ、と。だけど風というのはずっと吹かないですよ。一瞬止まるときがある。そのとき舵を切って助かった」
「すごい雨で前が見えないで、雨があがったら、けっきょく沖に出ていたというのもある。沖に流された時は、最悪海に飛び込んでいちばん近い島まで泳ごうと考えますね」
「出て行って帰ってくるときに風が回ったりすることもある。でも何年も乗っていたら、この風ではこの速度でどこに向けて走らせてどこに行くとか、北風のときにはあっちに行ってそれからあっちに、南風の時はこうと自然にわかってくるし、機械も全然わからなかったけど、少しずつ覚えて、マスターはできないけれども、なんとかなりますね」
「こんな経験がたくさんあったけれども、一度も船を降りようとも怖いとも思ったことは無いですね。夜、漂流しても、まあ、どうにかなるだろう、と。私なんか小さいときから海と友だちで、3日も4日も泳げと言えば泳げるし、船を漕いで田んぼに行ったりしていたから、やっぱり小さいときの体験経験ですよ」
「怖いというのが先に立ったらパニック起こして何にもできないから、だから乗れたと思う。また、お父さん(米蔵さん)が専門だから安心。助けに来てくれるという安心感があるから乗っておれるというのもありますね」
●卓さんにはどんな教育を
「彼は15の春で巣立って生きていけるように(島には高校が無いので)、時間の使い方、やるべきこと、いろんな躾を徹底してやりましたね」
「私は学校の勉強は一回もみたことありません。そのかわり、家の仕事を割り当てて、自分達で布団を干したり、洗濯物をたたんだり、アイロンをかけたり、母親が帰ってくるまでピシッとしておくこと」
「海のこと、山のこと、自然の食べられるもの、食べられないもの、触っていけないもの、やっていいこと、いけないこと」
「これだけやらないと離島の子は生きていけないと私たちも母にそう言われてきたし、15の春までにはしっかり躾けて送り出すことを、離島のお母さんたちに言いたいですね」
●これまで船浮を出たいと思ったことはありませんか
「無いですね。電気水道がないときからここで生活していますから不便だと思ったことなどないですよ。今はもうありがたいですよ。今はご飯から洗濯からスイッチ一つで全部できるじゃないですか。それだけでありがたい」
「高校時代、大学時代の忙しかった経験、あのときは大変だったけど、自分で働くようになると、昼間働いて夜は自由にできる時間があるじゃないですか。あの時の経験があったから、夜の時間が嬉しくてもったいなくて何かを一生懸命やるんです」
「いまは地域のことを一生懸命やろうと思っています。公民館長も、民生委員も引き受けて、自分の出来る範囲で目いっぱい。360度アンテナを広げて一つ一つ片付けていこう、と。片づけることはできるので……」