尖閣諸島開拓の日式典 コロナ禍の下 短縮50人で開催

 1月14日、午後3時から石垣市民会館中ホールで尖閣諸島開拓の日式典が開催された。

 2010年12月に定めた条例「尖閣諸島開拓の日を定める条例」から毎年1月14日に開催されているこの式典は、今回で12回目。この日、コロナ禍で陽性者が増えつつある中、拡大防止のため関係者のみでの開催となった。来場者は約50名で、全員が体温測定、ワクチン接種の確認下の入場となった。

 式典は司会の石垣市企画部の小切間元樹部長の一声で始まった。

 国歌斉唱の後、式辞で中山義隆石垣市長は、
「1884年明治84年に古賀辰四郎氏による探検調査などを経て、1895年明治28年1月14日に日本の領土に編入され、沖縄県の所管となることが閣議決定された」と、「1月14日」に触れていた。

 その後には「1902年明治35年に石垣島大浜間切登野城村に編入され、1909年明治42年には開拓者の古賀氏に因んで「古賀村」と呼ばれ、事業最盛期には99戸、248人が生活し、羽毛の採取、漁業や鰹節製造、海鳥の剥製加工などがおこなわれており、紛れもなく尖閣諸島は、日本固有の領土としての歴史的事実があります。」と、日本は実効支配する尖閣諸島の根拠を述べていた。

 そして市長は
「しかし、1968年昭和43年に、国連機関による東シナ海の石油埋蔵可能性調査結果が公表された途端に、突如として中国が尖閣諸島に関する独自な主張を述べはじめました。近年では中国公船による領海侵入が常態化しており、昨年は136隻、接続水域での確認日数は332日となっている」
と述べ、石油埋蔵情報をきっかけに、領土問題が存在するかに世界へアピールするねらいで、動いている中国政府の実態を述べていた。
 石垣市が、令和2年10月1日に、石垣市は尖閣諸島の字名を字登野城から字登野城尖閣に変更したことを市長は述べ、
 「1969年に石垣喜興市長が自ら上陸し、設置した行政標柱がありますが、昨年8月に新たな標柱の設置を作成。昨年9月に国への設置許可を求めたが、未だに設置に至っていない」
と、設置の重要性を述べ、国に理解を求めていた。

 また、離島ターミナルに設置した石垣市尖閣諸島情報発信センターに触れ、標柱も展示されており観覧無料で尖閣諸島に関する情報が閲覧できることをアピールしていた。

 このあと、玉城デニー沖縄県知事の祝辞を県八重山事務所曽根淳が代読。平良秀之石垣市議会議長、西大舛高旬八重山市町会副会長が祝辞を述べたあと、岸田文雄自由民主党総裁挨拶を自由民主党で前外務大臣政務官かつ衆議院議員の国場幸之助氏が代読したほか、立憲民主党で衆議院議員の原口一博氏、日本維新の会で国会議員団副代表、参議院議員の鈴木宗男氏の両氏が挨拶に立ち、尖閣諸島の重要性を述べていた。

 国民民主党の衆議院議員の鈴木義弘氏は、玉木雄一郎代表の祝辞を代読して、国会に提出した自衛隊法と海上保安庁法の一部改定案を紹介。領海における海上秩序の維持を図るために、警備の措置、権限、任務明記などを図るもので、同党は党派を超えての取り組むことを述べていた。

 内閣審議官で内閣官房領土・主権対策企画調整室長の川辺英一郎氏が、「長年、尖閣諸島をめぐりたいへん厳しい情勢の中で、長年にわたって向き合ってこられた石垣市および市民の皆さんへ、改めて敬意と申し上げます。」と述べ、市長同様にこれまでの経緯を継ぎながら「尖閣諸島には解決すべき領有権の問題は存在していません」と強く断言していた。

 尖閣諸島に関して、広く国民の理解は必要として、尖閣諸島の歴史や台湾からの感謝状などの他、知られていない情報をSNSを通じて発信しているとし、昨年末には石垣市情報発信センターを設置したことに触れ、修学旅行者や、離島めぐりをする観光客など多くの人の立ち寄っていただける場となっているとして、大変意義ある取り組みと述べていた。

 従来は尖閣に関連した講演がおこなわれるところだが、コロナ禍による短縮開催で、一連の挨拶で式典は終了となった。

 (流杉一行)

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