2度目のコロナ禍での尖閣列島戦時遭難死没者慰霊祭

 7月3日は、石垣市舟蔵にある尖閣列島戦時遭難者死没者慰霊碑の前で、遺族および関係者による尖閣列島戦時遭難者死没者慰霊祭が開催される日。

 今年は、昨年に次いでコロナ禍のために大事をとり、尖閣列島戦時遭難者遺族会(玻名城健雄会長)の役員ら6人だけで同慰霊祭を実施した。

 高齢化が進む同遺族会は、毎年実施してきた慰霊祭を継続させるためにも、少人数で開催することを優先。昨年同様に、役員らで集まり、桃林寺住職の小林僧侶による読経の後、少ない人数での焼香を済ませて、感染防止の配慮の下、短い時間で慰霊祭を済ませていた。

 玻名城健雄会長は、「コロナ禍の中、役員だけでも開催できて、よかったと思う」と、緊急事態宣言の下、八重山でもまだ若干感染拡大が続く中、慰霊祭ができたことに安堵していた。

 この日は、兄と姉の名が慰霊碑に刻まれている宮良正之さんが役員の一人として出席。当時2・3歳だった兄姉二人の幼子が栄養失調で生還後に亡くなった話をして、戦争犠牲者が弱者に及ぶ戦争の惨い仕打ちに触れていた。

 玻名城会長の友人がつくった千羽鶴による鎮魂の文字も奉納されていた。

 この尖閣事件は、76年前の7月3日午後2時の米軍の疎開船2隻へ向けた攻撃時間から始まっている。

 戦争終結直前の7月3日、第1千早丸と第5千早丸の2隻が、台湾へ疎開者を乗せて航行中の午後2時頃に米軍の機銃掃射に遭い、第1千早丸は炎上。第5千早丸が救援にのりだし、油と血で染まった洋上から第1千早丸の乗船者が救い出された。

 この時多くの犠牲者が出た。その後、第5千早丸もエンジンが故障して漂流してしまい、エンジンの修復後、尖閣列島に上陸。食料を調達して過ごす中、やがて食べるものがなくなり、疎開者でなる一行は飢餓状態になって、30日間に死者が続出する。

 船の炎上の犠牲者に加えこの島での餓死者続出から、危機感を抱いたことから、まだ体力ある人らで協力して舟をつくり、救援を呼びに行くことを実行。川平湾に到着し、島から救援の船が3艘向かって、救助された。

 沖縄本島ではすでに6月23日は過ぎ、日本軍の組織的な戦闘は終わっていたが、八重山ではまだ続いていた。この米軍の攻撃は、第1、第3、第5の3隻の千早丸自身を日本軍は地元から徴発(民間から承諾無関係に手にする)して、台湾から石垣へ軍の物資を運んだあとに、今度は石垣から台湾への疎開船として活用。

 それを知ってか、米軍の戦闘機が凄まじい戦闘を疎開船にしてみせ、民間人犠牲者を生んだ。

 日本軍が民間の船を徴発し、軍の物資を運んだ後の惨事であるだけに、何も知らされない民間人には、危険でむごい疎開船。その疎開船も敵を欺く手段であったとすれば、何を信じていればよいのか。

 米国側から見れば、民間の船も軍の物資を運ぶとなれば、軍事作戦に使われるものが運ばれている以上、攻撃対象にする。そうなれば疎開船が米軍から攻撃されないわけもなく、民間人が犠牲になる可能性があっても、攻撃されれば敵が憎いとなる。

 また島に残れば犠牲になる可能性は大いにある。非武装民間人は軍の命令に従う道以外にはなかったとすれば、完全に戦前は国民の犠牲に国家を守る体制。それは最初から悲劇を生む構造を、国民が許容していたことになる。

 戦争が生み出す公然とした狂気は、計り知れない形で悲話を生む。


 
(流杉一行)

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