11月15日、白保竿根田原洞穴遺跡を国の史跡に指定するよう文化審議会が文部科学相に答申した。近く官報で告示し、正式な指定がある。
この遺跡で有名なのが2万7000年前の人骨の発見。年代特定が人骨から直接できた国内最古の人骨だ。それが2013年に開港した新石垣空港の、建設中の工事現場でみつかった。水はけをよくするために沈砂池が設けられることになっていた場所だ。そこはC1洞窟と呼ばれる洞穴だ。
「洞穴調査で獣骨を見つけた時、人骨がある予感を感じた」そう語るNPO法人沖縄鍾乳洞協会の山内平三郎理事長。この人物こそ、この国の史跡指定を得た直接の功労者。要請活動を繰り返して、国、県、県教育庁を説得。
かくして、金をいくら積んでも手に入らない貴重な史跡が、壊されずに国指定の史跡になった。
新石垣空港建設が、徹底した自然環境の保全がなければ建設できない状況を生み、遺跡調査でも慎重さに扱われたことで、失わずに済んだ白保竿根田原洞穴遺跡。
新石垣空港の建設は、1979年に決まった白保海上案から住民の反対運動の末、カラ岳東案、カラ岳陸上案、宮良牧中案と紆余曲折。各公民館長参加の建設位置選定委員会を設置して協議し、2000年にカラ岳陸上案に決まった。その決定にも条件が加わり、適正な環境アセスメントでの建設が約束された。
当時、慎重な建設が続くのは、反対する人々の不満が、くすぶっていたから。そんな監視の目の下で建設が進む中、2001年に遺跡調査が実施され、16か所の遺跡が発見された。この段階でも白保竿根田原洞穴遺跡は発見されおらず、そこで見つかった遺跡は、記録して壊される命運の遺跡でしかなかった。
そんな中に教育庁文化課に連絡が入る。洞穴調査で人骨、獣骨、ヤコウガイが散布する場所があると。
2008年に県教育庁文化課が動く。そこで下田原土器が発見された。県埋蔵文化財センターも調査に入る。
しかし人骨が出ても、光のとどかない洞穴なので、遺物が流れ込んだもので、遺跡ではないと判定。2008年9月まではそういう扱いだった。これが遺跡として認められるには2010年7月16日まで待たなければならなかった。
遺跡発見通知が県新空港建設課から出され、遺跡として認知されたが、それでも2010年11月までの調査後は、石灰岩ごと削られる予定だった。
それが、各機関からの要請が多数出されて、2010年10月保存が決まった。その後2011年11月に、人骨から直接判明する年代としては国内最古となる2万4000年前の人骨発見となり話題となる。その後、なお古い2万7000年前のものと分かり、重要度は増している。
稀有な経緯で、最古の人骨が守られたことになる。更新世末期の墓葬・墓域として日本初の事例とされる。
竿根田原洞穴遺跡のような国内最古級の人骨や遺物が、まだ島の各地にあるかもしれない。そう思ってしまう時、人の目の届かない、島のあちこちで起こる開発現場で何が起こっているか。考えると、悲しい話。
なお、2010年10月に保存が決まった直後は、遺跡では調査が実施されている。
報道陣へ公開した時の模様が以下の動画。まだ、2万7000年前の人骨発見には至っていない。当初は、2010年11月に石灰岩ごと削り取られる予定だった場所が、その1か月前にギリギリ県は遺跡発見通知を出した。
このギリギリの遺跡認定で、9年後の竿根田原洞穴遺跡の国の史跡がある。
まだ2万7000年前の人骨発見前だが、調査の必要を説き、実施に至らせた関係者の尽力こそ、一番に賞賛されるべきことではないだろうか。
(流杉一行)