7月26日午後3時30分から石垣市新川の真乙姥御嶽で、今年の豊作に感謝し、来夏世の豊穣を祈願する四か字豊年祭が盛大に開催された。
昨年、御嶽の拝殿を建て替え、伝統とモダンの融合を目指した新鮮な光景を見せる御嶽での初の豊年祭となった。
旧拝殿から継がれたその違和感のない光景は、今後100年を目標に歴史を綴る、拝殿にとってスタートの豊年祭の姿。しかも区切りのいい今年は令和元年。
今年も盛大に開催されたこの石垣島最大の豊年祭は、前日に各御嶽で実施されたオンプールの勢いを真乙姥に結集する四か字の村全体を盛り立てるムラプールで、この日、開始時刻に合わせて次々に旗頭が集合。
まずは新川の旗頭、田頭(たーがしら)、矢頭(やーがしら)が登場して鳥居に結ばれた。
稚児が持つ記旗(シルシバタ)と稲・粟・麦・フームン・芋が入った五穀(グク)と呼ばれる籠を先頭に、新川の巻踊りがスタート。
水主とよばれる白衣、白鉢巻に扇持つ婦人らが続き、新川字会長ほか長老が合掌してアーラヨーを謡い、その後、ザイ、ツヅン、イニスリ、ユラス、アズン、マスタティ、ターラグ、ガキバライ、ターウツ、タイク、ションク、ドラと、続々奉納が展開された。
このあと、双葉、大川、石垣、登野城、JA、石垣島製糖、市役所、八重山農林高校、石垣中学校、東京八重山会と続々旗頭とともに太鼓隊や舞踊が奉納され、境内は活気にあふれ、炎天の熱気も忘れて大いに盛り上がっていた。
15本の旗頭が立ち、真っ青な空の下で豊年祭は最高潮に向かうのは、種子の授け式の後のアヒャー綱の儀式。
これは、昔、宇根通事という役人が首里に向かう途中嵐に遭い大陸に流された時、家族が日ごろから祈願していた真乙姥御嶽で、無事帰還したら神前で綱引きをする誓い、祈願していたところ、3年後に無事帰ってきたことから、家族が真乙姥井戸の釣瓶の縄で綱を編み、お礼の綱引きをしたのが始まりとされている。
この儀式は、女性だけで行われるもので、ブルピトと呼ばれる女性が神司から雄綱と雌綱を結ぶ抜き棒を授かり、それで女性たちで綱を結ばせ、歓喜の舞をするというもの。この日のブルピトは東嵩西のり子さん。
神司から受け取ると東嵩西のり子さん、女性としては出すことのない大きな声で「さあー、さあー、さあー、さあー」と発すると、境内の外に控える各字から参加する大勢の女性らがいっしょに掛け声をはじめて、会場は一気に最高潮に上り詰める。
抜き棒を差して、縄の上で御嶽へ手を合わせて祈願すると、3人の女性がブルピトを背負い、ブルピトは女性の肩に乗って手で舞を見せ、ぐるりと周囲を練り歩くと、周囲の女性も、「さあー、さあー、さあー、さあー」の大合唱で、四か字の豊年祭の儀式の締めくくりは、女性の綱引きで盛り上がってお開きとなった。
このあとは、大昔、新川の番所があった近くに移動。豊年祭を見に訪れた来場者全員の手を借りて綱を、もってその場所にたどり着くと、集まる人は黒山の人だかり。豊年祭の儀式のあとの、この余興が人気で、見物人の数は最高に膨れ上がる。
まずは、日没まで八重山農林高校の切れのある群舞で彩る見事な演目や、各種婦人会の華やかな舞踊などで会場は、夕日を舞台に見ごたえある光景を演出。
日が沈むと、松明が炊かれて、東から長刀の大将、西から鎌の大将が登場して、人が持ち上げた台の上で迫力あふれる戦いが展開。
そのあと、綱引きが行われて、老若男女が参加者して熱気あふれる綱引き合戦のあと、凱歌は西に勝敗は決まって、最高潮の中、豊年祭の全日程が終了した。
(流杉一行)