明和の大津波遭難者慰霊祭

 4月24日午後3時から石垣市宮良のタフナー原にある明和大津波遭難者慰霊之塔で平成30年度明和大津波遭難者慰霊祭が石垣市の主催で行われ、多くの市民が慰霊の塔の前に参列した。

 冒頭、主催者の石垣市長中山義隆氏が挨拶に立ち、
「明和8年の1771年4月24日の午前8時頃、石垣島南東沖で発生した地震により大津波が引き起こされ、石垣島をはじめとする周辺の島々では村々が流失、全壊するなど、壊滅的な被害をこうむり、9000人余りの尊い命が失われました。」
と241年前のこの日、この地に起こった歴史に残る大惨事を振り返り、冥福を祈るとともに、7年前の東日本大震災、2年前の熊本地震に触れ、いつ起こるか知れない自然災害に対し、今すべきことは
「過去の教訓から学び、ひとり一人が自らの命を守るために、防災、減災の意識を持ち、日頃から備えを整えておくことだ」
と述べていた。

 このあと代表献花が石垣市議会議長知念辰憲氏から順におこなわれて、哀悼の誠を捧げていた。

 作文朗読では、石垣市立真喜良小学校6年の佐伯美羽さんが「不安だからこそ」を、白保中学校の高橋満月さんは「被災者の方々の気持ちを大切に」を朗読した。

 佐伯さんは、自分たちで自分の命を守るためにそなえ行動することが、石垣島でおきた明和の大津波の犠牲者の人たちを慰霊することだと思いますと結んでいた。

 また高橋さんは、「震災に遭われた人々の辛い気持ちを無駄にすることなく、危機管理意識を高めていきたい」と述べていた

 清々しい声で読み上げる小中学生の作文朗読のあとは、この場所に同慰霊塔を建立に力を注いだ牧野清氏がつくった詩吟「慰霊の塔に寄す」が石垣市老人詩吟クラブによって吟じられて、会場は気迫のこもった歌声に聞き入って、被災当時に思いを馳せていた。

 このあと一般献花がおこなわれて、自由解散となっていた。

この日、慰霊の塔の前は、例年通りきれいに草刈りがしてあり、快適に慰霊祭が開催されたが、昔を知る郷土史家の石垣繁氏によると、海側の草が刈られず、宮良湾に点在する津波石の様子が見えないことを指摘。

この慰霊塔ができたとき、わざわざ宮良湾が一望できるように土砂を動かして、津波の爪痕を直に見ることができる配慮がされていたことを披露して、せっかくの配慮が台無しになっていることを指摘していた。

 石垣繁氏は、この慰霊塔の期生会会長だった故牧野清氏について振り返り「氏の詩吟まで歌われ、このように市民皆が継承していく慰霊祭が続いているのを見るに付け、立派な先輩だったと思う」と述べ、『死んで名を残す、』とはこのことだと思うと、今は亡き先輩の業績を再認識していた。

なお、この日、慰霊塔の一角にテッポウユリが数多く開花している場所が司会者から紹介されていた。八重山ライオンズクラブによる植栽で、昨年10月8日に、この日の開花を期して植えられたもの。見事に開花を実現して、慰霊塔に大地に根ざすテッポウユリの開花を添え、この地にしばらく哀悼の花を絶やさずに済めることとなった。
(写真は、2017年10月8日の植栽風景)

(流杉一行)


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