<日曜の朝に>通事建次鳩間公民館長に聞く

森口豁『子乞い』(凱風社)新装普及版の帯に次の文章が記されている。
「80年代初頭、小学生がたったひとりになった鳩間島の住民は、親戚の子を島外から借りてきてまで小学校を存続させようとした」

本書は当時の島の様子を追ったノンフィクションであるが、帯の文章は次のようにつづく。「いまでは全国各地から居場所を失った子どもたちがこの島へやってきて、自分らしさを回復して帰っていく」

鳩間公民館長の通事建次さん(69)は、来年春に完成が予定されている鳩間留学施設(仮称)に期待を寄せる。これがうまく行けば、この島に高校だって夢ではないと。

通事さんを訪ねていろいろ話を聞いた。
通事さんの話を時系列に並べてみると、鳩間島の戦後の歴史と現在が垣間見える。

●1955年頃の鳩間島

通事さんは1958年(昭和33)、小学校3年の時に島を離れ那覇に出たのだが、その頃の鳩間島はとても賑やかだった。「カツオ漁が盛んで、人がいっぱい。子どもたちも、各学年25、6人はいましたね」

「カツオはこの近海で捕れましたから、多いときで1隻の船が1日3航海やるときもありましたよ。カツオ船はウーグチ(島の西側の環礁の切れ目)から旗を立てて帰ってきます。漁獲量によって、日の丸旗(1000斤)、赤旗(2000斤)、ミイル(3色)旗(3000斤)、グイル(5色)旗(5000斤)の旗を揚げた」

「工場の人は浜で待機していて、船が入ると、この前の浜でカツオを捌くんです。この海は真っ赤に染まりましたね」

「カツオの頭はしょっちゅうもらいました。カツオの頭の三角になった先のほうに刺身にできる部分があるんです。それを刺身にして、残りを煮つけしたり、出汁にしたりして食べました。他にも使い道があって、ヤシガニを捕る餌にするんです。魚のエラとかを木に括りつけておく(50センチくらいの高さ)と、それにヤシガニが食いついて逃げない。それを捕るんです」

「カツオ漁のほかに、トビイカ、ツノマタ、海人草などが盛んだった。イーシ(ツノマタ)は、リーフの内側にいっぱい生えていた。それをガギジャー(熊手)で採って、日干しにして乾燥させて売った」

「夏場は、学校に行く前に、干してあるヒンガーイカ(トビイカ)を下すのを手伝うんですよ。すると、2、3枚もらえる。それをさらに自分で干して、買いに来る人がいますから、それを売って学用品を買った。あのころB円でいくらだったか、でも確実に学用品は買えましたね」

「放課後、潮が引くと後ろのリーフに魚を突きに行きました。エーグァ。それが今晩のおかず。先輩についていって、クムイ(礁池)で、追いかけると石に隠れるので、それを突く。難しくない。誰でもできる。2時間ぐらいで5寸くらいのものを20匹30匹、隣に分けるくらい捕りましたよ」

「あのころはまだ西表に通って米を作っている人も多かったですね。スクマ(初穂儀礼)のときには、その日の朝に、前の海の沖の方に、サバニが20~30隻ずらーっと並んで壮観でしたよ。浜に居るサカサ(司)に初穂を奉納するんですね」

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●里子のおかげで存続した鳩間校

島を出た通事さんは、1982年(昭和57)に家族を連れて鳩間島に戻ってきた。過疎化が進んで子どもがいなくなり、いよいよ学校存続の危機だと父親に呼ばれたのである。

「いずれ帰るつもりでいましたので」と通事さん。

翌83年(昭和58)、鳩間小学校は愛隣園(児童養護施設)から4人の里子を受け入れた。通事さんの父親の力さん(当時簡易郵便局長)と大城博さん(当時公民館長)が里親となった。通事家は女の子2人を受け入れた。以来、通事家は20数年間里親を続けた。

「最初は施設の子でしたから、家庭的に恵まれない子が多かった。うちの子どもと一緒に、自分の子どものように育てましたよ。親代わりでしたね。最近は不登校などの問題をかかえる子が多くなりました」

「大事なのは、見守ってやるということですね。今まで自分を出しきれなかった子が、学校の代表になったり、発表の機会をもつことによって、みるみる伸びて行きますね。また、島の人たちが大切にしてくれるものですから、その愛情を受けて癒されていくんでしょうね。島は子どもを必要としている。子どももまた島を必要としている」

「島の生徒がみんないなくなったときがあったんですよ。それで、学校は3か月間休校。大阪まで飛んで、私の里子の子ども2人を呼んで、それで復活しました」

「10月になるといつも、来年は学校は大丈夫かと対策を立てるんです。ここに馴染めなくて1年足らずで島を出る子もいるし、増えるときは増えるけど、やはり増減が激しいところがあります」

これまで子どもを受け入れてきた実績が評価されたか。行政のバックアップで鳩間留学施設(仮称)が来春完成の予定である。いわゆる里子の寮のようなもので、子どもたちはここで寝食を共にし、学校に通う。

「これまでの里親と並行してこの施設ができれば、子どもたちの在籍が安定して学校がなくなることがない。スタッフも必要になって雇用も増える」

「小さな島の鳩間島は人材育成に適していると思いますよ。島が小さければ勉強するしかないんですよ。集中してできる。山に行きたければ対岸の西表に行けばいいし、賑やかな石垣だってそう遠くない」

「離島交流プロジェクトの学生たちが毎年やってきて島の人たちと交流していますが、留学施設はその拠点にもなりうる。高校につながっていくという可能性もゼロではない。高校ができれば、地元の子どもだけでなく、全国から来てもいい」

●現在の鳩間島

今年1月末の鳩間島の人口は41人(男22・女19)、世帯数30である。

「郷友会のみなさんと協力しなければ大きな行事はできない状態ですね。豊年祭も本当は3日間つづけてやるべきですが、今年は、ユードゥシ(オンプーリィ)はピュール(日選り)のとおり月曜にやるんですが、トーピンとシナピキは郷友会の協力がないと棒も打てないしハーリーも綱引きもできないので、郷友会の皆さんが参加できる土曜・日曜に、日を置いてやるんです」

「昔はそれぞれの御嶽にサカサ(司)がいて、カンフツ(神口)も口承で伝承していたんですが、今は、どの御嶽にもサカサがいなくなって、願いも公民館がやっています。神様にお詫びして、簡素化してやっているんです」

「ダイビングショップ3軒、民宿9軒。この島は観光のほかにこれといった産業がありません。ですから、冬場の船の欠航というのはとても痛い。このあいだ、町長に、上原・鳩間間の船を出してくれと要請したんです。5月3日の鳩間島音楽祭のように1日200人が宿泊するような大人気のイベントもある。交通さえ整備されれば観光はまだまだ伸びて行くと思います」

「石垣に山羊の組合ができましたね。いま、鳩間からも山羊を出荷しようかと。黒島が牛なら、鳩間は山羊でいこうかと話しているんですよ」

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