<日曜の朝に>島尻昇平久保公民館長に聞く

●平久保の開拓移民

激戦地となった沖縄の戦後復興は特にきびしいものがあった。琉球政府は、米軍に土地を奪われたり、食糧難で苦しむ人たちを募り八重山への農業移民事業を1952年にスタートさせた。これが琉球政府の計画移民と呼ばれるものである。

それより先、宮古の人たちを中心に、八重山の各地に入植した人たちがいた。計画移民に対して、これを自由移民と呼ぶ。自由移民の多くは後に計画移民に編入された。それは1町5反の耕作地を配分されるなどのメリットがあったからである。

平久保への計画移民の入植は1956年(昭和31)4月である。自由移民13戸を編入して、30戸151人が入植した。宮古島平良、下地、城辺、上野、沖縄本島の国頭、地元八重山から参加した。(金城朝夫『ドキュメント八重山開拓移民』)

島尻昇平久保公民館長(61)は1956年6月6日生まれ。「宮古で生まれて3か月後に入植したと聞かされた」という。父親は先に入植し、母親とともに約半年遅れて平久保に移住したのだろうか。

物心がつくころ、まだまだ開墾作業がおこなわれていたという。
「ブルトーザーが整地をしていたり、薄うす覚えていますね」

平久保小学校では、同年生は「30名はいたのではないか」という。現在の平久保小学校の全児童が8名というから、開拓当時の賑やかさが想像できる。

「食べ物が少なかったので、祭りの時のご馳走が楽しみだった」
「学校から帰ったら、草刈りしたりほとんど家の手伝い。夏休みには毎日畑に連れて行かれた。学校が休みになったら、親は、待ってました、ですよ」

だから「学校のほうが良かった」。伊原間中学校では部活に熱中した。野球をやった。
中学卒業後、本土就職。「ヤマトの生活は楽しかったけど、長男だし、いつまでもおれないし22、3歳の頃」に帰ってきた。

現在は親の後を継いで専業農家である。約6町歩の畑のほとんどにサトウキビを植えている。平久保では、かつて昭和30年代のパインブームの頃はパインも植えたが、ずっとサトウキビが主流。しかし、最近は畜産農家が増えた。

●イノシシと電気牧柵

「農業は大変ですよ。イノシシの被害が恐ろしいですよ」と島尻さん。ひどいときは畑の半分が被害にあうこともあるという。猟友会に駆除をお願いしたりするが、たびたびというわけにはいかない。

あまりにも「ワジワジィする」ので、去年はイノシシ罠の免許をとった。しかしまだ1頭も捕れない。「まだ素人だからね」

サトウキビ畑に電気牧柵をやるというのをはじめて知った。牧場に張り巡らす電線のこと。家畜が逃げ出さないように電流を流して牧場を囲うものだが、イノシシの侵入を防ぐためにサトウキビ畑を囲ってある。

平地のサトウキビ畑に比べれば余計な負担。その電気牧柵を役所が貸し出しているというのも納得がいく。しかし貸し出しが今年で無くなるという。「ぜひ継続して貸し出しをしてほしい」と島尻さんは訴える。

電気牧柵は金もかかるが、管理に手間もかかる。イノシシは植え付けた苗も掘り起こして食べるので、植え付けの段階から収穫まで電気牧柵は必要だし、何かが電線に引っ掛かると「電気が逃げて」効かなくなるので妨害物を常に取り除かなければならない。でないとイノシシに入られてしまう。

イノシシの被害、「昔はそうでもなかったような気がする。昔は山裾までみんな畑だったからね、イノシシの隠れる所がなかったんじゃないですかね。みんな出て行って、荒れ地が多くなった」

日本復帰1年前の1971年、干ばつと台風の被害がつづいた。本土企業による土地買い占めが横行した。そのころ八重山の多くの開拓農民が村を出た。平久保には今でもかなりの広さの企業有地がある。その荒れ地がイノシシの棲み家になっているのではないかと島尻さんは言う。

イモ、サトウキビは大好物だが、最近は、バナナの実はもちろんのこと、芭蕉の芯まで食べるという。「以前は畑の隅にバナナを植えたけど、今はもうできないですね。集落にも入ってきて掘り起こすし、モノがつくれないですよ」

荒れた企業有地、どうにかならないものなのか。

●平久保の現在と未来

島尻公民館長によると、現在の平久保集落は、25世帯約60人(役所の3月末の統計では37世帯73人)。そのうち戦前からの家は3軒、最近の本土からの移住者が4軒、残りは開拓移民の家(2世が多い)だという。

現在の平久保について、「住み良いところ。みんな和気あいあいと、物々交換じゃないけど、つくったものをあげたり貰ったり、そういう交流がまだ残っています」と公民館長は言う。

他地区でよく聞く移住者とのトラブルについても、「全然ないです。部落のことをよくやってくれています」と言い切る。

「むしろ若い移住者がきてくれて活気がでている」という。新移住者は乗馬体験、ホテルなどいずれも観光関連の事業に就いていて、島尻館長は、観光による集落の活性化ができるのではないかと考えている。

「サバニで観光案内をやっている人もいるし、星空観測もいいし、保存会が中心になって活動しているサガリバナのこのあいだのイベントは200名ぐらいの人が集まりました。アイディア次第で面白いことができるんじゃないですか」

そうなれば若い人が住みつき子どもが増え、現在の課題である、幼稚園・学校の存続問題も解決できる。「いろんな仕事が興って、企業ができて、働く若者がきて、ここを出て行った若者たちが帰ってきてくれれば」と思う。

若い人が増えれば、20年以上も絶えてきたかつての獅子祭り(旧盆送り日の翌日)の獅子舞も復活できる。

ちなみに、今年の公民館の年間行事は次の通り。
1月1日=新春グランドゴルフ大会
3月下旬=公民館総会
6月18日=父の日グランドゴルフ(平久保小学校区=平野・久宇良合同)
7月24日=豊年祭
8月28日=七夕(無縁仏の供養)
9月18日=敬老会
12月=農道作業(キビ刈り時季を前に農道の整備)

このうちの最大の行事はやはり豊年祭だが、かつては濱崎マントさんが拝んでいた安良の大城御嶽と、平久保の元村御嶽(徳底御嶽ともいう)の2か所で祈願がおこなわれていた。ところが数年前から安良での祈願はおこなわれていないという。

「若者がいなくなって」と島尻公民館長は言う。
新移住者の世帯以外は、ほとんどが高齢世帯。「子どもの2人は東京にいて、もう戻ってくる意思はないみたいですよ。僕らには住んで良い所だけど、若者はどうか」

公民館長宅の縁側ちかくに座って話をうかがった。外は強烈な日差しなのに、家の中を涼しい風が通り抜ける。「平久保は高い所にあるから涼しいんですよ」

その風の通り道に、館長の孫たちが夏休みで遊び疲れた体を横たえて寝ていたら…、とつい想像してしまった。

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