戦争マラリア追悼式 コロナ禍の下、戦後77年目

 沖縄戦から77年目の慰霊の日を迎えた6月23日は、石垣島のバンナ公園南口付近のAゾーンにある八重山戦争マラリア犠牲者慰霊之碑では、午後3時から石垣市主催の令和4年八重山戦争マラリア犠牲者追悼式が開催された。

 今年も一昨年から続くコロナウイルスの感染拡大が終息せず、参加者を絞り、座席も離れて設置して、縮小開催を余儀なくされた。

 ただ、参加者を60人に増やして、コロナ禍に配慮しながら、少しづつ正常に近づける取り組みも、始動している。
 中山義隆石垣市長の式辞の後、八重山戦争マラリア遺族会の唐真盛充会長が追悼の言葉を、慰霊碑に向かって語った。

 当真氏は冒頭、マラリア特効薬のキニーネの原料となるキナノキを、祭壇前に奉納したことを報告したあと、追悼の言葉を述べた。

 日本軍は、石垣島の全住民をマラリア有病地帯へ強制疎開させる前に、波照間の住民を西表島へ強制疎開させた理由が、波照間で飼われていた家畜数千頭を日本軍の食糧とするためだったこと。そして、波照間住民が西表島でのマラリア罹患で3人に1人が亡くなっていること。犠牲者は、男が軍に招集されて、老人と婦人と子どもしかおらず、痛ましい惨状が広がっていたことを述べていた。

 八重山でのマラリアによる犠牲者の数が3647人に及んだことは、空襲や機銃などで住民が襲われ亡くなった住民おかずが170人だったことを思えば、この犠牲数はいかに甚大ないだったかを物語っている。

 また、軍は特効薬を持っていながら、住民への支給は皆無であった。この日本軍がおこなったことは八重山住民への犯罪であり、遺族会としては、これら事実を後世に伝えることが使命と思っていると述べていた。

 最後に当真氏は、旧東ドイツの首相バイゼッカーの言葉「歴史に盲目となるものは、現在にも盲目となる。過去を忘れるものは、それを繰り返すこととなる」を取り上げ、過去の惨事を風化させることなく、語り継ぐことで、二度の同じ過ちを起こさせないことを、犠牲者に誓っていた。

 この後、沖縄県知事の追悼の言葉が八重山事務所の曽根淳所長が代読した後、代表焼香が順に行われて、最後は一般焼香も実施されていた。

 今回、祭壇前に奉納されたキナノキは西表島から取り寄せられたものとのこと。

 この八重山戦争マラリア犠牲者慰霊之碑建立の4年後、その裏側に当時同遺族会の会長の篠原秀雄氏が沖縄海洋博覧会で育成してきたアカキナノキ17本を植樹。2001年の慰霊の日に実施された。その内の1本が奇跡的に開花したのが2008年。

 残念ながら県へ問い合わせても、管轄が違うということで、この奇跡的な開花を見せたアカキナノキは、囲いをつくってもらうことはあっても、保護することもなく、台風の襲来で簡単に倒され、消滅してしまった。

 あれから10年以上経って、西表島で栽培されたキナノキがこの日奉納されたのは、やはりこの木さえたくさんあれば、キニーネをつくり、罹患者を救済できたのではという思いからのもの。

 犠牲者へ寄り添う想いがこもる慰霊祭は、こうして継承されていく。
 (流杉一行)

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