コロナ禍で竹富島の種子取祭の奉納芸能が中止 祈願のみ

 竹富島の世持御嶽で10月14日、15日に開催予定だった国指定重要無形民俗文化財「竹富島の種子取祭」の奉納芸能が、新型コロナウィルスの感染防止のために中止となった。この二日間当日は、静かな光景が広がっていた。

 毎年竹富島の種子取祭は10日間実施され、その最後の2日間では世持御嶽で奉納芸能が繰り広げられ、多くの郷友や観光客が集まって島は最高に賑わった。

 なかでも奉納芸能1日目の夜は根原家(種子祭を戊子の日に定めた根原金殿の子孫宅)でのユークイからはじまり、夜遅くまで各家々を巡るユークイ行事が行われるのが圧巻の伝統行事。

 今回、新型コロナウィルスの全世界のでの感染拡大から、やむなく竹富島公民館は庭の芸能や舞台の芸能などの神への奉納を一切やらない奉納中止を9月上旬に宣言。密を避ける困難さは、途方もないと判断。

 ただ島の人々による祈願だけは実施することとなった。その島内での祈願だけの開催も公にはせず、島民が一致して内輪だけのものとした。

 14日、早朝、各所で祈願を終えた後、世持御嶽では弥勒起こしが始まり、長老でなる役員らでガーリーをしたあと、拝所で拝礼と祈願が行われた。竹富島在住者を中心に役員や関係者が神司とともに次々に祈願した後、神司と役員らが午前10時頃から根原家へ道歌を歌いながら移動。

 根原家では役員らによる巻歌とガーリーが行われた。密を避けて、見守る人は30人ほど。この後は玻座間西村と東村、および仲筋で、各2軒ほどユークイ行事がおこなわれて、14日の日程は終了。極力集まらないように、細心の注意が配慮されていた。

 15日も同様に、早朝の行事の後に世持御嶽でガーリーが行われ、祈願だけが行われた。

 竹富島の種子取祭が今回のように奉納芸能抜きで実施したのは1944年の戦時中のみで、当時も祈願だけは実施されていたとのこと。

 いわば奉納芸能が中止となったのは、76年ぶりとのこと。

 もともと、神への奉納芸能が行われるようになったのは明治からとのこと。

 それ以前は、この祈願が中心で、今に比べれば簡素な祭といえたという。約700年以上前から実施されてきたとされる竹富島の種子取祭の歴史からすれば、もとの姿に近いことで、原点を見る機会となったと、そんな声も聴かれた。

 伝説では竹富島の種子取祭のきっかけが、種子を蒔く日を玻座間村の根原金殿が決めた戊子の日にほかの村の首長も蒔くことになり、いっしょの日に種子取祭をすることから、はじまったという。

 同じ日に神への祈願をする島。この祈願が島をひとつにまとめることになったとすれば、今の時代に考えさせられることもある。

 5月から8月まで、そして中止に決まるまで、竹富島内は本土や沖縄本島の状況の深刻化に揺れながら、様々な声があがったという。総じて、全国各地からの来島者が島の古老を脅かす可能性があれば、そこは苦渋の決断に落ち着いた。

 今後、アフターコロナをどう対応するかが、時代の焦点でもある。

 八重山が観光バブルになる以前から、島の文化を重視しながら、観光を先導してきた竹富島。新たな時代に何を大事にし、どう対応するかは、大いに注目されるところ。

 かくして、令和2年の竹富島の奉納芸能の14日、15日の二日間は、水牛車も休日。島内の各店舗も休んで、歴史に残る静かな2日間となった。

 島人に気持ちを尋ねると「寂しい」。言葉では表せないものがあると語った。
 

 (流杉一行)
 
 

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