完治するハンセン病、差別・偏見をなくす啓発機会を

 第15回ハンセン病市民学会総会および交流会in八重山・宮古が先島で開催され、5月18日石垣市民会館中ホールで八重山集会がスタート。19日、20日には宮古集会が実施される。

 まず18日は、午前10時から同中ホールで八重山集会がプレ特別企画と題してはじまり、開会宣言が大田静男八重山集会開催地実行委員長により実施された。

 作家の姜信子氏による映画解説の後、昭和7年制作、吉野二郎監督による沖縄で最古の無声映画「執念の毒蛇」が上映された。

 ハワイ移民した夫婦が妻のハンセン病罹患から夫が無情にも妻を置き去りにして帰国。追って帰国した妻が裏切った夫を問い詰めるも、再度騙され、崖から突き落とされ殺される。恨みをはらすべく妻は毒蛇となって、夫に恨みをはらす物語。

 昭和初期にハンセン病を海外で発症したケースが映画につくられ、しかも実話であったと最後に記されている部分に、この日の上映の重さが伝わる。昭和初期の沖縄の光景も、意外に都会的な驚きがあり、違う意味でも気になる映画だった。

 午後2時からは全体会となり、ハンセン病市民学会総会と交流会が実施された。

 第1部として、ハンセン病市民学会共同代表の遠藤隆久氏から主催者挨拶がおこなわれ、多数の来場者の列席に感謝しながら、昨年の那覇での開催に続いての開催を喜んだ。

 県知事の出席は叶わなかったが、副知事が出席して知事の挨拶を代読。今回のこのイベントの共同主催者として中山義隆石垣市長も挨拶に立ち、市内の小中学校での講話などを積極的に実施して、差別のない地域づくりに真剣に取り組む姿勢を約束した。

 第2部では家族訴訟裁判の弁護団の徳田靖之氏が今年6月28日午後2時に熊本地裁で判決が予定される家族訴訟裁判についての報告がおこなわれた。なかでも訴訟団の561人中、250人が沖縄出身者でその内の86人が八重山出身者であり、その多さを指摘。その要因は、退所者の多さ、沖縄における差別が根強いということ。
 また250人の訴訟人のうち、本名を明かしている人はひとりもいないことなどから、地域における差別・偏見のひどさを述べていた。

 このあと「島を出た八重山人たち」と題するシンポジウムが開催された。
 進行を南山舎代表の上江洲儀正が担い、コーディネーターに郷土史家の大田静男氏、パネリストに鹿児島・星塚敬愛園入所者の上野正子氏、大阪・関西退所者いちょうの会会長の宮良正吉氏、沖縄愛楽園自治会会長の金城雅春氏の回復者3人と計5人で、全員八重山出身者によるハンセン病シンポジウムが行われた。

 冒頭、光田健輔撮影のフィルムが公開された。岡山・長島愛生園歴史館所蔵の映像で、台湾楽生院や八重山の光景、宮古南静園、那覇バクチャーヤーなどの映像が披露され、大田静男氏が詳しく解説していた。

 このあと、進行役がパネリストに問いかける形で、当時の実情や当人の思い、体験談を披露していた。

 八重山に療養施設がなかったことを考えると、罹患すると島を出なければならなかったことについて、各自、罹患がわかった時、どういう状況だったか。ふるさとをどう思っていたか、今はどうか。周囲の反応などを通して、八重山のハンセン病を考えていきたいとして、3人に当時のことをたずねた。
 上野さん93歳、宮良さん、金城さん3人それぞれ、年代も違い、状況も違うことを念頭において聴いてほしいと述べていた。

 上野さんは「13歳で、沖縄第2高等女学校で、たむしができたことを先生に述べると、先生に言われて、愛楽園へいくようにいわれた」と、幼い上野さんには、鹿児島の星塚敬愛園へ向かうこととなり、オーバーやカレーライスを食べさせてくれた話をしていた。
 上野さんには『人間回復の時』の著書がありその中にある、小学4年生の時に見た八重山収容の話を上野さんは披露。
「私はハンセン病になって家を出されて困っている人を見たことがあります。アガリクヤと呼ばれる場所に、大人の人が集団で生活しているのを見ています。愛楽園へ送るとき、強制収容でしたが、桟橋とは違う別の場所から、警察官が縄を張って、タオルをかぶせられた人たちが強制収容される様子を見ていました」と、当時の状況を説明。「私がハンセン病になるとは思いませんでしたが・・・このとき、(その光景を見て)ハンセン病は怖い病気だと思いました」と、述べていた。

 解説する大田氏は、「琉球王府時代にあった、家族が村はずれで様子を見なさいという状況が続いていた。
 らい予防法ができて、強制収容の次代にあり八重山にも施設をつくる予定だったが、戦争に向かう時代に予算がなかったので、つくらなかった。そこで、沖縄本島の愛楽園へ送ることになった。

 新任の熱心な警察官が各地の患者を徹底的に調べて、強制的に70名ほど、宮古の粟国丸をチャーターして、サザンゲートブリジの東のあたりから船をつけ、患者を乗せていった。そこを上野さんが見たのではないか」と述べた。

 八重山での愛楽園への強制収容は3度おこなわれたと進行役から解説され、最初は愛楽園の開設の時、上野さんが見た昭和13年におこなわれたもので、昭和19年の戦時中の日本軍による収容、戦後昭和24年の米軍により大規模に行われた八重山収容と説明。

 八重山収容が終わった後の世代となる宮良さんと金城さんが、ハンセン病と診断された当時の話を披露した。宮良さんは、「小学4年生の身体検査で赤い班が出ていた。そこでわかって親元に連絡され、母と石垣島の医者を全部回った記憶があり、石垣によい病院がないと思ったのを覚えている。小学5年に上がるとき、沖縄本島で見てもらってきなさいと母に言われ、自身は薬をもらえば帰れると思っていたが、帰れぬままになった」という。

 金城さんは「高校2年のときで、復帰前の琉球政府時代で、在宅治療をやっていた。大学へ行って、薬を辞めていた。島に戻って仕事についたら、ある日発熱をして、何だろうと思っていたら、ハンセン病と分かり、保健所から外来していた。熱発が収まらないので、専門の病院があるというから愛楽園に行って40年になります」。

 琉球でのハンセン氏病予防法は、本土のらい予防法とは違う点が2つあり、ひとつは退所規定の項目があること、もうひとつは在宅の療法の項目があることで、沖縄には退所者がたくさんいる。
 大田氏は「大嶺健勝氏が八重山で通院で治療するようにした。これは画期的なもので、本土の光田の一門ではできなかった。世界保健機構で勉強して、台湾で学習し、在宅治療があると展開させた」。
 自宅から通うと個人情報が漏れてしまうために、漏れたところから知られて…、施設があってやるべきだったのではないかと、思う。

 このあと3人から当時の生活ぶり、帰りたいと思ったことなどを語ってもらい、今の暮らしについてなど思うところを語ってもらっていた。

 金城さんの話に、啓発活動を小学校中学校で実施して、正しい知識を学んでもらう活動に取り組んでいる話があり、「ハンセン病は怖いものではない、感染することがない、感染源はなくなっている」と、きっぱり述べ、今や皆完治しており、「治療している人はひとりもいない」、罹患したとしても「インフルエンザよりも簡単に治る。偏見差別を受ける病ではない」と明るい声で述べているのが印象的だった。

(流杉一行)
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