<正月の朝に>開拓60年の於茂登部落にて

●ふたたび土地を盗られる!

12月23日(土)午後3時から、於茂登公民館(おもと農村多目的集会施設)で「おもと入植60周年記念式典・祝賀会」がおこなわれた。

「乾杯の音頭」に立った長老の喜友名朝徳さん(94)は、入植当時はクワとツルハシで開墾に苦労したと述べ、自作の詩「大本節」の4番「野山 しちならち 畑作い しまち 栄かてぃ行く 大本 幾世までぃん」を詠い、乾杯!と杯を挙げた。
入植から60年。苦労してやっとここまで来た於茂登部落が、いつまでも栄えますように、と。

ところが於茂登部落にはいま「いちばん大きな問題」(公民館長)が持ち上がっている。近くの平得大俣地区が陸上自衛隊基地の予定地になったのだ。

「心配ですよ」と喜友名朝福公民館長(58)は言い、「こればかりは受け入れられない」と前公民館長の嶺井善さん(52)も言う。

基地の話は突然にやってきた。
ある日、石垣島自衛隊配備推進協議会(三木巌会長)から公民館長宛に「石垣島への自衛隊配備の魅力」という冊子が届いた。

当時の館長は嶺井さん。
「クリーニング屋が儲かる、食堂が儲かる、散髪屋が儲かる、と笑いたくなるような理由が書かれていた」。しかし、看過できない問題だ。
防衛省からはおもと農村多目的施設で意見交換会を開きたいと打診があった。

2016年1月10日。於茂登公民館は急きょ臨時総会を開いた。議案書と一緒に冊子を出したら、住民の一人がテーブルを叩いて「お前は自衛隊の協力者か」と公民館長に詰め寄った。そう誤解されるほど部落の人たちは怒った。

結局、於茂登公民館は、平得大俣地区への自衛隊配備計画に「全会一致で断固反対」を決めた。会場も貸さないことに決めた。「話を聞いたら説明したと既成事実にされる」からだ。

「沖縄本島でも土地を基地に盗られたのに、またここでも土地を基地に盗られるのか。なぜ同じ思いをしなくちゃならないのかと言う人もいましたよ」と嶺井さん。

喜友名公民館長も「ここは島の中心部で、水に恵まれ、市街地にちかい最高の場所。思い切り農業をやりたいと沖縄本島から土地を求めてやっと落ち着いたのに」と頷く。

『八重山開拓移民』(金城朝夫)は於茂登部落の成り立ちを次のように記している。
「移民団の構成は、軍用地に土地を接収された北谷村の三区の通称ウフモーと呼ばれていた地域の人々を中心とする一一戸と、玉城村と志堅原地区の七戸、地元から与那国二戸の計二〇戸」

1957年(昭和32)、最後の琉球政府計画移民として於茂登(1962年真栄里山から於茂登に改称)に入植した20戸のうち11戸は、米軍用地として土地を接収された家族だったのである。

ふたたび土地を盗られる!
於茂登部落の人たちが怒ったのももっともだ。

●於茂登部落の60年

ここで於茂登部落の60年を簡単にたどってみよう。
幸い於茂登部落入植50周年記念誌『土と緑と太陽と』に「おもと開拓小史」(大江久仁)という優れた文章があるので、そこから引用する。

「於茂登が入植した57年頃はいわゆるパインブームの絶頂期でもあった(略)一方で、永年作物の茶への期待も大きかったようだ。(略)62年に於茂登村内の有志8名の組合によるお茶工場が完成した。お茶は、たいへん品質が高く評価されたが残念なことに、販路開拓がうまくいかずに、頓挫してしまうことになる」

「於茂登ではキビとパインを中心に、新天地での生活が軌道にのりはじめていたが、一方、入植地全体の傾向としては、1965年頃から、パイン価格の暴落や開拓資金の償還などがはじまり、次第に経営状態の悪い農家が増え始める」

「71年は、未曾有の大旱魃と直後の大型台風ベスが襲い、農村部は壊滅的打撃を受けた。(略)しかし、そうした復帰前の混乱期、先の見えない状況のなかにおいても、我が於茂登村は、何一つ動じることなかった。(略)優良農村として発展する於茂登を象徴するのが、八重山初の土地改良事業とそれをフル活用した農業の近代化である」

*八重山初の土地改良事業について、嶺井さんは次のように話した。
「於茂登は水はあったけど畑の地形が複雑。不便だからいち早く土地改良にとりかかった。自分たちで公庫から金を借りて事業を興した。於茂登山から手前の山のタンクに水を溜めてそれから畑に配分する。維持管理はぜんぶ自分たちの手作業。あのときのやり方が現在のモデルになっている」と。

「本土復帰後は、農業改良資金を利用して、トラクター、耕耘機、ハウスが次々と導入され、一気に農業の近代化が加速し、於茂登は八重山郡内の農業先進地となり、島内野菜の65%を供給すると言われるほどまでに、発展していくのである」

「90年代にはいると、島内野菜販売を中心とした於茂登農業の繁栄にも、翳りが見え始める。(略)交通や情報網の発達で、石垣島全体が離島経済から本土経済圏へと取り込まれていくことが主な原因だった」

「バブル経済期には、熱帯花卉類の県外出荷が高い収益を産み、島内野菜に変わるものとして期待された。また、スイカやゴーヤーやモロヘイヤなどの野菜類の県外出荷も試みられた。しかし、いずれもバブル経済が終わると、収益が伸びず上手くいかなくなった。こうして、於茂登の施設園芸は、次第に衰退する」

「バブルの不況がじわりじわり押し寄せ、二世世代の兼業化もすすんだ。やがて、三世が成人する時代を迎えるが、三世で農業を継ぐものはいなかった。自由化などの影響で日本農業全体が失墜した今、リスクの高い農業にあえて挑戦する者が出てこないのは当然と言えば当然の結果である。一世や二世も、三世に農業を継がせたくない時代となってしまったのである」


*於茂登部落入植50周年記念誌『土と緑と太陽と』より

●キビの穂を基地に代えていいのか

この文章は後半部分で八重山農業だけでなく、「石垣島全体が離島経済から本土経済圏へと取り込まれていく」という八重山全体のかかえる課題をも指摘している。そして、筆者はこの「小史」の最後で、次のように書くのである。

――今、50年前に拓かれた50町歩を余る広大な開拓地には、静かにキビの穂が揺れている。その風景は、次ぎの時代の訪れを静かにまっているかのようである。於茂登村が迎える次ぎの時代は、どんな時代なのか…? それは今、誰にも語ることはできない。――

この文章から10年後の現在、
キビの穂が揺れる広大な開拓地(近く)に自衛隊基地がつくられようとしている。「次ぎの時代の訪れ」というのが、これだった。
「次ぎの時代の訪れ」は、「三世で農業を継ぐものはいなかった」農村の事情を見透かすようにやってきた。

嶺井さんは言う。
「ただでさえ若いのがいないのに、自衛隊が来て生活環境が変わると余計戻ってくるのがいなくなる。どんなにしてもこればかりは受け入れられない。本来はこれに時間を割かれるより、村の将来を見据えて一生懸命やらなきゃないらないことがあると思うが、そういう基本的なところそっちのけでいま自衛隊の問題に手を取られているということ、これがいちばん面白くないな」

今後も農業で行くのか。喜友名公民館長が言う。
「今はキビ主体だから広い土地が必要になって外にまで畑を借りないと子どもたちを育てられない。昔のやり方に戻ればいいんじゃないか。昔は1軒あたりの土地面積が少なかったから野菜をつくったり花をつくったり工夫した。国も六次産業をすすめているから、工夫次第でできるかも。なにしろ、どんな干ばつでもここでは水が手に入るからな」

あれから10年後の今、於茂登部落は、語らねばならない。問わねばならない。
自分たちの60年は何であったか。
人間の幸せとは何なのか。
キビの穂を基地に代えていいのか。
……
足元から問うことが大事である。そしてそれはひとり於茂登だけの問題ではなく、八重山の住民一人ひとりに問われている問題でもある。


*写真左が喜友名朝福公民館長。右は前公民館長の嶺井善さん。

(はいの 晄)

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