<日曜の朝に>池田克史さんインタビュー・船浮に生きる

今から13年前の2004年4月、船浮集落で、船浮住民、平田観光㈱、琉球真珠㈱の3者が出資した㈲船浮観光が事業をスタートさせた。村ぐるみで、船浮を訪れる観光客を案内し、食事と快適な時間を提供して送り出そうというものだった。

常に学校存続の問題に悩まされてきた人口44人の村の希望の船出であった。そのときの様子を取材し『月刊やいま』2004年3月号に「村に世果報を漕ぎ寄せろ!船浮観光の船出」というタイトルでレポートした。

公民館は施設の整備を町に要請し、老人会は特産品づくりを計画し、婦人会は舞踊などを提供しようと話し合い、石垣在船浮郷友会も協力を約束した。
…しかし、残念ながら事業は長く続かなかった。

社長は村出身若干32歳(当時)の池田克史さんだった。現在は船浮でツアーガイド「ふね家」を経営している。13年ぶりにお会いして、船浮観光のその後、船浮村の現在と将来について話を聞いた。

●船浮観光のその後を

3者でタイアップして村おこしができないかと思ってスタートしたのですが、(3者ゆえに)責任の所在がはっきりせず、けっきょくお互いに、あっちがやってくれるだろうと人任せになったところがありましたね。また、それぞれの都合もあった。地域ぐるみというのも難しいところがありました。

今思えばもう少し売り方を考えた方がよかったかなと思うところもあります。ここは辺鄙な場所なんですが、歴史がつまっている。地元の人は要塞や炭鉱など自分たちの歴史を訴えたかったのですが、やっぱり専門の旅行会社としたら、これだけでは暗すぎる、自然を売り出そう、と。

2011年ごろまではなんとかやってきましたが、自分自身を支えるのも大変になってきて、それで、独立させてもらいました。その後は全部自己責任ですから、もう頑張るしかないですよ。今の方がやりがいはありますね。

しかし船浮観光がきっかけで船浮が世の中に出て行ったようなもの。今、このあたりを奥西表という言い方が定着しているのは、あのとき僕らがその言葉で売り出したからです。それを知らないツアーの方は「昔からここは奥西表と呼ばれています」などと紹介していますけどね。

●息子さんが上原から船浮に戻ってきたと聞きました

小学3年までは家族一緒にここにいたのですが、小学校の生徒が2人になってしまった。もう一人の子は歳が離れたお兄ちゃんで、遊びが合わない。いつも一人で、つまらない、それで上原に行きたいと本人が言い出した。

どうしても出たいというのを、村のために待て、とは言えなくて、では引っ越しするか、と。しかし自分は仕事がこっちなので、家内の住所を上原に移してアパートを借りて、僕は行ったり来たりしながら。

新年度は、中学校が井上さんの子ども一人になるというので、(池田)米蔵さんたちからも「帰ってきたらいいのにな」とは言われていた。息子は釣りが好きなので、「そうなると船浮じゃない?」と誘ったら、船浮に戻る、と。

向こうの学校でも同級生はせいぜい4、5人。本人としては一度体験して、似たり寄ったりと感じたのか、釣りが好きなのでここを選んでくれたのか、それとも僕に合わせてくれたのか。

学校の問題、大きいですよね。学校があれば先生方も来て人口が増えるし、村のための犠牲ではないんですが、こういう精神も必要じゃないかと思っていましたが、ところがいざ自分の子どもが一人ぽっちになるとこんなこと言うんだと、そのときは考えさせられました。子どもってやっぱり一人じゃ生きていけないんだと。人数は必要なんだと。

集落の存続は学校の存続が不可欠。だったら、子どもたちも楽しくできるように人数を増やさないと可哀そうだと思います。村のために残れというのは、それは子どもにとってはつらいですね。どうにかして子どもを増やす対策を村で考えないといけないと思いますね。

●どうすれば子どもの数を増やすことができるでしょうか

このあいだ学校の先生たちと話していたときに気づいたのですが、今までは船浮に住んで船浮の学校に出すというのがひとつの考えだったと思います。ここで仕事をしないとそれが成り立たなかった。でも今は定期船がある。定期船が早く出れば、ここに住んで、外に働きに出ることも可能かと思います。

こっちの教頭先生の奥さんは西表校の先生。それで、中間をとって白浜に住んで、子どもは白浜校に通わせている。それが、たとえば教頭先生の家族がここに住んで、教頭先生と子どもがここの学校へ、お母さんは祖納の西表校に通うこともできる。

また、このあいだ白浜の公民館長と話したのですが、白浜は中学校がないので祖納の西表校に行く。しかし距離的に考えたら船浮もありじゃないの、と。

定期船がスクールバスのように時間を調整して走ってくれれば定期船の利用価値も上がるわけです。向こうからこっちに来る、ここに住んでいても向こうに働きに出れる仕組みができればいいと思うんです。

今までは企業に依存して増やした。琉球真珠さんも協力してくれて一時期は子どもが増えたんですが、けっきょくそれは会社の都合で、縮小すれば減る。自分たちもその一つでした。雇用を増やそうと若い人を入れたけど、会社が難しくなって続かなかった。

仕事じゃなくても、交通手段を整えれば、自然と新しい家族も増えてくるんじゃないか。船浮は西表のなかでも、珍しい場所というのがあると思うんですよ。自然もま後ろにあって、そういうところが好きという人にはもってこいだと思います。

船浮海運さんも、需要があれば対応は可能だと言っています。交通を整えること。僕はそれが人を増やすためのいちばん早い方法かなと思っています。

もうひとつ。今はインターネットとかのIT時代ですから、デザイナーとか物書きとかがここに住んで仕事をすることも考えられますね。しかし通信手段の整備がまだ少し遅れていて問題もあるようですね。

●池田卓さんが帰ってきて「船浮音まつり」などで観光客も増えたと思いますが、ふたたび観光で村おこしというのは難しいですか

今後も観光客は増えてくると思います。現在、西表の西部は浦内くらいまでが多いですが、2度3度西表に来る人は必ずここまでやって来るようになります。だから、自分たちが少しずつ力をつけていかなければと思っています。

しかし集落でみんなで協力して仕事を増やすことは難しいと思います。また、観光業という同じ業種で固まってこれを拡大させようというのも難しい。みんな観光業だとライバルになりますし、まだそこまでの需要はないですね。

今はそれぞれが努力してやっていってそれが大きくなれば雇用が生まれていくというのが現実的かな。また、客の取り合いではなく、たとえばカヌーのような新しいパターンであれば、やっていけることもあると思います。

宿泊施設が増える可能性は高いと思います。しかし土地の問題もありますね。狭い地域ですから宅地が少ない。イダの浜に抜ける右側の田んぼを竹富町なりが買い上げて宅地としてつかえるようになればいいのですが。

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●船浮で暮らしていく上で大事なことは何ですか

こだわるのはお祭りなどの行事ですよね。今は米作りをしていないのに、お祭りを何の意味でやらなきゃならないのかと最初は思っていました。もういいんじゃないのと。でも、なんでですかね、これをやっているが故に自分たちは地域の、今までの中の一員、今の一員じゃなくて、歴史の中の一員であるという感覚になるんですよね。

若いときは、お祭りの中の一部を少しやればよかったけど、おじさんおばさんが一人亡くなり、二人亡くなり、どんどん亡くなっていく。あ、自分たちが継いでいかないといけないというのを30代後半くらいから僕もひしひしと感じて、今では僕なんかも中心になって動けることがありがたい、嬉しいことだと思っています。

これ(行事)があるから続いてきていると思うんですよ。これがなくなったら多分もうただの集落ですよ。

やる気のある人が一人、一人と増えたら、コミュニティーは成り立つ。同世代なり、ちょっと若い人、新しい人間が入ってきてくれた方がいいのかな。

ずっとおんなじメンバー、ずっと古い流れで来ると、新しい発想が出てこないし、新しいものに壁を作ってしまう。こういう人もいるんだ、こういう考え方もあるんだというのを、みんなが理解することも必要ですね。

お祭りとかは、ここに住めばできるんですよ。あまり好き勝手できないけど、他所から移住してきた人でも、いっしょにやることによって自分も集落の一人だと感じてもらえる。そういうのが好きな人しか住めないですよね。

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