西表島上原。今年1月末現在の人口219人(男113・女106・116世帯)。西表西部への玄関口上原港を擁して賑わっているが、古くからの村で、でんさー節発祥の地としても有名である。
上原公民館長の銘里智(めり・さとる)さん(52)は、去る4月24日の総会で新公民館長に選任されたばかり。1年間の任期の予定。ご自身のこと、上原の今昔、公民館活動のことなどを聞いた。
●復帰(1972年)前後の上原
銘里さんは5歳のとき(1969年)、沖縄本島浦添市から家族(両親・兄の4人家族)で母親の故郷である上原へ移ってきた。
「上原小学校の複式解消のために、じいさんに口説かれて呼ばれたらしい」
漁師であった祖父がサバニで石垣島まで迎えにきてくれた。祖父のサバニで上原に渡った。当時の上原の海岸は砂浜だった。
「新鮮でしたね。浜に降りたら、ランニングと半ズボンの裸足の男の子の後ろを、鶏の親子がついて歩いていた。まるでマンガみたいに」
父親は学校給食センターに就職。当時はほとんどがパイン農家で、漁師の家が4、5軒あった。今はもう無くなってしまったが、当時は豊年祭もハーリーもあった。
「豊年祭には旗頭を出して、綱引きやって、棒はなかったですが、道踊りもありました」
ハーリーは、エンジン付きのサバニ船の競争だった。
「4、5隻、こちらの浜からスタートして船浦の方まで行って回ってくる。浜では銅鑼を鳴らして応援して、楽しかったですね」
しかし銘里さんが中学生の頃には、他の地域で見られるような櫂をつかう船漕ぎ競争に変わった。
野球も盛んだったが、子どもたちの遊びは、ビー玉、パッチ(メンコ)、チャンバラなど。野山ではバンシロ(グァバ)、ヤマモモ、グミの実などを採って食べ、海では蛤を塩水で煮て食べたり、ウニを食べたり、それが子どもたちのおやつだった。
●上原の世代り
「海中道路ができて東部と道がつながり、道路にアスファルトが敷かれて、それからすごい勢いで時代が変わったような感じがしました」と銘里さんは言う。
西表島の東部と西部をつなぐ西表北岸道路、いわゆる海中道路の開通が復帰4年後の1976年。その2年後の1978年7月30日には車の右側通行が左側通行に変更された「ナナサンマル」が施行された。
観光客が増え、上原館1軒だった民宿も次々と増えた。当時は船は隣りの船浦の港に着いた。移住者も増えた。
「新しい人が増えることは嬉しかったですね。新しいお兄さんができた感じで楽しみだった。その頃から合衆国と言われていて、(移住者の)ほとんどが内地の方でした」
銘里さんは船浦中学校を卒業して石垣の高校へ。卒業後東京で13年暮らして、20年前に上原に戻ってきた。
「自分がUターンしてきた時にはもう上原港はできていました」
「今は、もとからの人と、他所から移住してきた人と半々ですかね。区別とか差別とかはまったくありません」
●公民館長として
新年会、町の各種行事への参加、年に3回行われる環境美化活動などの活動があるが、なかでも上原公民館最大の行事は「デンサー祭り」の開催。
今年は6月16日(前夜祭)17日(本祭)におこなわれる。
前夜祭は青年部の主催。腕相撲大会、ビール早飲み大会などがおこなわれる。テレビ、自転車などが当たる抽選会もある。
本祭は道踊りと祝賀会。
道踊りは、ミルク行列にはじまり、婦人会の踊り、子どもの踊り、旗頭が出て、最後は綱引きで閉じる。
祝賀会には地域の人たち、各地の公民館長、町長らが招待される。舞台のオープニングが船浦中学校の吹奏楽部の演奏。婦人会・老人会の余興とつづく。
「いよいよ順番が回ってきたので、滞りなく無事やり遂げることができるように。とくに先輩方と青年部の橋渡しをうまくやってまとまりのある公民館をめざしたいと思っています」と銘里さん。
4年前に復活し機運がもりあがっている青年部の活動に期待しながら、先輩たちが築いてきた村の文化をうまく継承して欲しいと願っている。