9月27日に日本武道館で実施された安倍晋三元首相の国葬に向け、石垣市役所、竹富町役場、与那国町役場では半旗を掲揚して弔意を示した。
石垣市役所玄関向かって左の掲揚ポールでは、半旗が風になびいて、安倍氏の国葬への弔意を市役所が表明。国葬に反対する市民の存在を無視する形を、刻印していた。
内閣の閣議で決めた国葬は、内閣葬に過ぎないことから、その国費の扱いで、疑問を持つ人や、旧統一教会との選挙時で元首相が主導した癒着関係が自民党議員との関係の中で色濃く残っていることが判明して、与党への不信感が高まっている。材料的には、国民の60%近くが反対するのは、当然な成り行きでもあり、そこでの強行開催となった。
国葬に反対して焼身自殺を図る人まで出る事態は、国葬という国の統合を印象付けるイベントを、日本の国民が2分してしまう事態に、日本政府が大金をかけてやってしてしまったことになる。
これは、統治を旨とする政治の明らかな過失にさえ見えてくる。否、それより優先したい何かが、あるということなのか。
一部実力者の無理強いが報道されたが、ある種、その無理強いぶりを見せたい相手があるかに映るのはなぜか。国民を置き去りにする決定に馴れさせることで、安心する勢力があるかに、あたかも意図的と勘違いしてしまう。これでは安倍氏への弔意の利用である。
米中の確執とともに、北朝鮮の挑発行為に備える材料を考える統治機関としては、客観的なねらいを、有効な武装に振り分けたい意志が、透けて見えてくる。
この論議なき事態は、国民棚上げに事態が進行する憂慮が、今後増す可能性が見えてくる。4年前の安保法制で、憲法改正の必要なく米軍との連携領域が拡大したのも、閣議決定。いわば、閣議決定を武器に国民の意志を図る国会審議を飛び越えて、素早く進められるものを用意したことになる。
選挙の投票率が約50%の次元で、国民の関心が低いことを理由に、民主国家だった日本が、内閣専制可能な国家を準備している。それは、国民が了承してこそありえる話だ。その手続きさえ、面倒扱いされれば、遠のいていく。
長年日本が取り組んできた行政改革の到達点が、ここだったとは、情けない話。
元安倍首相を知る人であれば、与野党を問わず、その不慮の死を嘆かない人はない。
それを悼む気持ちを利用した人が、いないことを祈るのみ。
むしろ、亡くなった原因となる、銃傷に関する情報がもっと出てよいはず。
2発の銃声の話が、3発になることは理解ができない。そこをなぜ、正確に説明できないのか。
1発目の銃声で、安倍氏は逃げることがなかった。
警戒心が全くなかった安倍氏。
その後の銃声で安倍氏が倒れた。そして心臓マッサージ。
報道で使われた銃が自家製と伝わると、人が自家製銃によるたった1発の弾丸で亡くなるかと思ったものだった。
(流杉一行)