12月6日午後4時から石垣市大濱信泉記念館多目的ホールで、第8回南山舎やいま文化大賞受賞記念講演会が開催された。
冒頭、上江洲正和社長は、新型コロナウィルス感染防止のため、授賞と記念講演の開催が延び、また参加者を限定しての開催を深くお詫びしてから、第8回南山舎文化大賞に選ばれた川平成雄さんの「台湾引き揚げの軌跡」を称賛。
素晴らしい作品の執筆者のプロフィールを紹介しながら、賞状の授与の後の講演会では川平さんの生の声で再度作品に触れる機会をつくったと述べ、制作過程での裏話などを期待してほしいと述べていた。
このあと、選考委員長の波照間永吉氏が選考理由を紹介。
「本著作は、台湾引き揚げ実現の実態とその背景を明らかにするのみならず、引き揚げ者の引き上げ後の生活問題、そして終戦直後の八重山の状況までをあぶりだすものであり、優秀なドキュメントである。戦後の八重山史の1ページを明らかにしようとする意欲的な作品であり、高く評価できる。」と述べていた。
賞状と記念品の授与が行われた後、受賞講演会が実施され、
川平さんは、第二次大戦の敗戦後、台湾にいた八重山の人たちが、どのようにして引き揚げてきたか。
そして郷里の石垣島の地を踏んだ後、どのようにして生活を営んだのかを、「牧野清コレクション」と呼ばれる石垣市立図書館所蔵の資料集の中の第三次引き揚げに関する「台湾帰還関係雑書 第一綴第二綴」を読み解くことで当時の引き上げの実態を明らかにし、帰還後の生活の苦闘を描いた、川平さんの「台湾引き揚げの軌跡」の内容を、用意したレジュメに沿って、約50分間、ひとつひとつわかりやすく、講演した。
「台湾引き揚げ者の地域的特徴」の章では、敗戦当時、台湾にいた沖縄の人の数が3万近くいたこと。沖縄本島への引き揚げおよび、宮古・八重山への引き揚げについて話され、沖縄本島では戦後船がない状況下で、GHQの派遣するLSTや、旧日本海軍駆逐艦が利用され、一方で宮古・八重山の人は、早い時期に民間船を利用して引き揚げを始めたこと。
台湾からの引き揚げの第一次1861人、第二次223人、第三次1038人のそれぞれの事態を話し、牧野氏らが悪戦苦闘する状況が語られていた。
「八重山の生活状況」の章では、食料状況の悪化の八重山を説明。川平氏自身も、昔経験した飢餓話を紹介。水ばかり飲み、横になって寝返りを打つとポッチャーンと音がした話を披露していた。
戦後、食糧事情が悪いために、石垣島では盗人が横行して、そこで生まれた八重山自治会の話もあり、当時の同会結成の中心となって動いた豊川善亮氏の八重山毎日新聞掲載のインタビューを紹介するなどしていた。
八重山で起こった独自な通貨施策も紹介。紙幣に認印を押し、それがないものは無効にするなどし、紙幣の復活が沖縄本島より3か月早くはじまったことを説明していた。
時間が迫り、話を急いだ川平氏は、最後は引き揚げに苦労した人々は、めげなかったのは、明日への希望を持ち続けたからだと、話を締めくくっていた。
今後の抱負を記者が尋ねると、川平さんは、「かつて荒引橋付近に31件もの鰹節工場があった。隆盛した八重山の鰹節がなぜ衰退したのか。」と、次なるテーマを語る声に熱がこもっていた。
(流杉一行)