カースンヤーの願い <2018>

 7月28日は、農業の盛んな大浜集落による豊年祭が行われ、今年の五穀豊穣と来夏世の豊作を大浜集落の人々が集い祈願する。

かつては大浜町の役場があった集落で、大浜町全体が農業を基盤に立つ町でもあったことから、豊年祭は独特なものがある。

会場となるオーセ(番所)での豊年祭に先立って、午前2時から大浜集落の5御嶽(崎原御嶽、大石御嶽、大底御嶽、水御嶽、黒石御嶽)から神司4人と次期神司1人がカースンヤーと呼ばれる祈願所に集結して、東の海の彼方へ向かって祈願がおこなわれた。(白装束は神司のみ)

東の浜に漂着した穀物のモミを積んだ船によって村が栄えた物語となる。12題まである「東節(あがりぶし)」を、公民館役員が出席して、神司とともに歌い上げて、長い祈願の歌の時間が幕を閉じていた。

 伝統行事で、長く豊年祭の前に実施しているこのカースンヤーの願いは、ニライカナイ信仰を象徴する行事としてみることができる。

 豊年祭が、庶民にとっての税の納付のための作業の完了と、それからの一時の開放を与える王府からの政治的な色彩に見えがちだが、その観点がもつ上からの色彩を一掃する、種籾の取得ができた感謝および耕作による自然からの産物への感謝という下からの強い思いが、この行事に残っていることがうかがわれる。

  ある種、琉球王府の政治の神髄には、大自然に向き合う農業者の信仰心を、しっかり引き出す意識があったかに見え、その仲介に立つ神司を通じて、遠距離ながらも、しっかりと地域を統治する独特な手法が、そこに見えてくる。

  村には神がいて、その神を仲介する神司がいる。そして、神への奉納を尽くし、ヤーニンジュから集まる奉納が、ヤーモトからヤーニンジュ互助のための措置に使われて、結束の軸になっていたのではないか。ゆるい再分配の構造があったとすれば、素朴ながら高度なシステムといえなくもない。

  強い気持ちで、その祈りを繰り返し、そこに突破口を見出すしかないときに、強さと継続の祈りがやがて事態の好転を生み出せたとすれば、誰に強制されるまでもなく、自身の意思だけでとった行動が、その成果につながれば、こんな自信につながる行動はない。

  多くの人々が喜んでくれるものを生み出せたとするなら、それは大きな自信につながる。何がどう成果につながるかに、強い思いが長く意識にいつもあり、そこでの発見の積み上げから、確かなものを生み出すとすれば、星の観察も、種をまく時期の特定につながりえたのでは・・・。

とすれば、その強い思いの賜物が、ムラの文化に直結し、残ってきたのではないか。

ニライカナイ信仰の「ニライカナイ」が「願い叶い」に似ている偶然も、どこかつながる節も感じられる。
  

  (流杉一行)
 

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