7月3日、石垣市新川舟蔵にある尖閣列島戦時遭難死没者慰霊之碑で慰霊祭と総会が行われた。
会場には、1945年7月3日に起こった尖閣遭難事件(台湾疎開船第五千早丸と第六千早丸が米軍の機銃掃射によって攻撃を受け、尖閣列島魚釣り島に漂着。そこで食糧難で多数の被害者が出て、数名で救助隊を石垣島へ呼びに出て、救助された事件。)の当事者、遺族、関係者の約50人が参集。導師の読経の後、参加者は線香を焚いて手を合わせ、72年前の死没者に哀悼の誠を尽くしていた。
挨拶に立った、慶田城用武尖閣列島戦時遭難者遺族会会長は、「石原元都知事の尖閣の購入および国の国有化にともない、尖閣周辺の環境が一変しました。とくに2011年に山谷会長による日本の領土を守る議員団の会が、遺族会への連絡もなく、尖閣近海で尖閣事件の洋上慰霊祭を実行して、御霊を美化して政治に利用したことです。遺族会は、ナショナリズムに利用されないよう、遺族会の考え方を発表しました。制海空権がアメリカ軍にある中、石垣町民に台湾疎開を命じました。疎開船に乗った人は台湾への航路の制海空権がアメリカのあるのを知っていれば、誰一人疎開船に乗らなかったに違い有りません。80名の人が命をなくしました。本土防衛のために捨て石にされたのです。この事件から、情報がいかに大事かを示しています。」と述べ、慶田城会長は、尖閣の領土問題は自衛隊の配備ではなく、経済的な結びつきを大切に、互いの経済発展を重視して、「自衛隊基地の配備はやめるべきです」と訴えていた。
この日は、はじめて尖閣から決死隊として石垣島へ救援を求めに船で川平へ渡ったひとり、見里勇吉さんの遺族、見里千代さん(82)が車椅子で参加。「今日、はじめて慰霊碑を見ました。生きている内に一度見たいと思っていました。このように、大切にされていることを知り、うれしいです」と述べていた。
また、この日出席した崎村サヨさんは、「台湾にいた父のもとへ向かった母とその子ども3人が尖閣事件の犠牲になり、生前父が海辺で『海にお前の兄や姉が眠っている』と海に向かって手を合わせることが度々あった」ことを披露。この事件は忘れてはならないと、「後妻の母が慰霊祭に参加し続け、足が弱ったので今度は、娘の私が参加しています」と述べ、私が来れなくなったら、息子に継いで、平和を大切にするために、この事件は忘れないようにしたいと述べていた。
(流杉一行)