<日曜の朝に>鳩間島・大城安子さんの昔がたり

大城安子さんは昭和4年(1929)鳩間島生まれ。現在88歳。
昭和31年(1956)西表の船浦に転出、その後石垣島、沖縄本島などで暮らしたが、12年前の平成17年(2005)に鳩間島に戻ってきた。
現在、父親の実家(小浜家)で、妹さんたちと仲良く交流しながら暮らしている。
「妹、弟たちが鳩間にいてくれるので、私は世界一幸せ者だと笑うんですよ」

●お盆・十五夜・豊年祭

この家は、東の獅子のヤームトゥ(獅子元)で、東の獅子は雄獅子、西の獅子(大工家が獅子元)は雌獅子です。いつもは一番座東の廊下の奥にしまってありました。父が亡くなったときに獅子は公民館に返しました。

お盆になると獅子を出して、卵の白身でキレイに磨いてピカピカに光らし、歯も白くし、(獅子の)着物もキレイにして、まずここで願いをするんです。部落から1合の花米とお酒(3合瓶)が出ました。

【若者たちが集まる。獅子を庭に出す。獅子頭を茣蓙の上に置いて、酒・肴を備える。獅子元の主人が獅子頭の前に線香を立て、全員で合唱して獅子祭りを行う。しばらく歓談する。飲食をしながら和やかな雰囲気に包まれる。しばらくするとアンガマが踊られる。三線・笛・太鼓・銅鑼に合わせて≪ニンブツァー(念仏歌)≫を演奏する】(竹富町史・鳩間島p325)

(アンガマは)男も女もみんな花笠を被って顔を隠して着物を着ているので、誰がだれだかぜんぜんわからないですよ。(獅子といっしょに)家を一軒一軒まわる。

屋敷に入って、「今は何を出しなさい、今は何を出しなさい」と歌を歌って、そして獅子舞があって、みんな獅子の周りを飛び跳ねる。
昔話に、お盆に供養したらお母さんが成仏した、それをみて飛び跳ねて踊ったとあるんですよ。いちばん鳩間のものが理にかなっていると思いますね。

(お盆の翌日の)16日には、公民館で獅子が踊られるんですが、これは子孫繁栄の意味だったんでしょうね、雄獅子、雌獅子を連れて来て、ここで2頭が絡み合ったり、そういうのがありましたよ。

十五夜には、ご馳走を皿に入れて、友達同士、浜に集まって、飲んだり食べたり、楽しみましたよ。

サイダーひとつ貰って喜んで。サイダーの蓋を開けたら一度に飲んでしまうので、蓋に釘で穴をあけて、ちょっと飲んでは歩き、ちょっと飲んでは歩き。大事にこれを持って。そんなことしていましたよ。

一年のうち、お正月と豊年祭には、お父さんお母さんが、キレイな洋服・着物・下駄など買ってくれましたよ。豊年祭は東部落と西部落の競争ですから、みんな集まって踊りを習ったり、一生懸命でしたよ。

●学校・遊び

今の公民館の敷地に学校がありました。1年生の時、同級生が女8人・男7人でした。学校に行くことはとても楽しかった。学芸会になると、いちばんに「先生わたし出ます出ます」と。じゃあ安子さんですね、と先生も笑って。

私のひとつ上から島にも高等科ができたんです。それまではお金のある人が石垣に出て高等科に進学しましたが、高等科ができたので私は飛び上がって喜びましたよ。

ところが私は、母が心臓病で、6年までしか行けなかった。毎日泣いてね。そんなにたいして頭も良くないのに、どうしてあんなに学校に行きたかったのでしょう。可哀そうに。

あの頃の遊びはお手玉、毬つき。羽根つきはあんまりなかったと思うけど、絵の上手ないとこの兄さんが、桃割れを結ったキレイな少女の絵を描いてくれて、自分で羽子板と羽根をつくって、パーンパーンと独りでやっていましたよ。羽根は、ソテツの実に、鳥の羽を赤く染めて、刺し込んで。

女だけど、ひとりで凧もつくったんですよ。男の子みたいにいつも飛ばしたんですよ。だから、クメのビキコーニー(小浜屋の男青年)と笑われたんですが、私は何とも思わなかった。

潮が引いたら、みんな海に行きましたね。ここには海に行く道がいっぱいありますからね。タコ、サザエ、シャコ貝、魚、いっぱい獲れました。でも、あの頃、シャコ貝はあんまり食べなかったですね。

ウフピといって大きなリーフがありましたよ。そこにツノマタを養殖していましたね。ツノマタを取ったら、石はね、全部海に返すわけです。時々は木の葉っぱを縛って海に沈めたり、そういうふうにやっていましたね。

●漁業

漁船が何隻もあってね。カツオ、イカがたくさん捕れるというので、石垣からも沖縄からも多くの人がやってきました。ものすごく賑やかでしたね。

イカがいっぱい獲れて、東の先から西の先まで、浜はズラッとイカを干してありましたよ。真っ黒く。はい。

イカは、ハラワタを取って潮水で洗って、最初、皮を上にして干すんです。紐に掛けて干す。昼になったらこれをひっくり返す。夕方になったら、これをぜんぶ家に持ってきて、これを、腹と腹を合わせて、積んで置くんです。

翌朝は、それを庭に広げて。ススキで簾のように編んだのがあったんですよ、それに並べてまた干すんです。

そんなにして乾燥が終わったら、畳を取って、床に何かを敷いて、乾燥したイカを30センチくらいの高さに重ねて置いて、そしたら業者が買いに来るんですよ。

フカなども、羽はみんな切って乾燥して(それがおいしいフカヒレなんてそのころは私なんか全然知らなかったですよ)、身は切り身にして干して、これもみんな売っていましたよ。

当時はカツオ工場がいくつかあって、船が着いて、カツオを船からバーっと下ろしたら、浜にはこんな大きな台を置いて、みんなで、(カツオの)頭を切り、腹を取って捨てて、それを工場に運んで、三枚におろして、大きな本節は4つ、小さなのからは2つに分ける。

籠に入れて、煮て、冷やして、なまり節ができたら、骨抜きをして、並べて、それをバンバン薪を燃やしてンブス(いぶす)わけよ。焙乾(ばいかん)するわけ。

身が欠けたり傷ついたところは、ハラゴウを練ってつくったもので修繕するわけ。そして日に干して、これをキレイに削った。削りと言っていましたが、いろんな小刀があるんですよ、曲がったもの、尖ったもの。女の人がズラーっと並んで作業をしていました。

完成した鰹節は箱にカワラヨモギを敷いて、鰹節を並べて、またカワラヨモギを敷いて、そんなにしていましたよ。

●農業

米は西表でつくりましたが、(鳩間)島では、芋、粟、黍、いろいろつくりましたよ。今の学校のところのほとんどがウチの畑でしたらか、そこには父がよくスイカを植えて、白浜とか炭鉱とかに売っていました。

父がつくっていたスイカは、トウガンのように長くて大きくて、赤だけでなく黄色いスイカもありましたよ。

稲は西表の田んぼに植えて、刈りて、脱穀して、俵に詰めて、サバニでもってきました。そして、島で干して、籾蔵に詰めておくんです。

鳩間の人の田んぼは、西はニシミジから東はサキンダまで、西表島の北の方にありました。サキンダ、ケーダ、シタダレ、トゥマダ、ウイバル、フナウラ、いっぱい、ずーっと田んぼです。

私は長女ですから、お父さんと一緒にサバニで行くんです。舟の前の方に乗って、帆を上げたり下げたりするのは私がやるもんですから、バンと舟の端に座るんです。綱を持って水上すれすれに体を倒して、いま考えたら怖いですよね。

順風だったら30分ぐらいで行けたんじゃないですかね。風のないときは漕がないといけないですよ。私は、子どもだから眠たくもあるし、一時は一生懸命やるけど、疲れたら怠けたりしてよ。

田植えにはあんまり行かなかったですね。お父さんたちが今日はこの家の田んぼ、今日はこの家と、ゆいまーるで、やったですね。田草とり、稲刈りは家族でやりましたね。みんな同じ時期でしたから。

●戦争体験

ある日、隣りの親戚の兄さんが出征したんですよ。武運長久を祈るというので、頭に供物を担いで、ゾロゾロと友利御嶽に登って行った。願いがほぼ終わった頃に、西の方から大きな飛行機が、村の上を這うようにワーッと来たもんだから、みんな驚いて隠れた。

私は、ワーッ大変だーっと、境内に飛び出たんですよ。バラバラバラバラと機銃、ドーンと爆弾を落としていくんですよ。妹や弟はどうなったか。はあもう、弟たちはみんな死んでしまったと、転がるように家に走ったんですよ。

家の中は煙で真っ白ですよ。弾が廊下の柱に刺さってましたよ。お母さんと隣のおばさんが、神様助けてください、と気狂いみたいに回っているわけですよ。

学校に行こうとしたら、学校は無事だよと。やれやれ良かった。ふと見ると、東の方から真っ青になって子どもを抱えて飛んで行く女の人がいた。その人の弟が爆風で怪我をしたんですよ。

宮良先生という医者が大城の一番座を借りていたんですよ。私も一緒に走っていった。私は何をしていいかわからない。「あなた、これを持ちなさい」と先生が叫んで、私はもうガタガタ震えて、祈るだけでした。…この子は亡くなってしまったんですよ。

体の弱いお母さん、妹や弟たち、それに私。14、5歳くらいでしたかね。
宇那利崎の防衛隊に召集されていた父が、島に空襲があったと聞いて、すぐに帰って来て、私たちみんなを引き連れて、赤離の田んぼ小屋に避難したんです。

空襲のあと、みんな西表に疎開しましたよ。島はもう空っぽですよ。友利御嶽のサカサ(神司)だけは島を動かなかったという話を聞きました。

鳩間にいたら食べ物も何も心配なかった。畑にはいっぱい芋も植えられている、海に行ったらタコも貝も魚もある。米もある。何も心配ない。ところが西表には何もない。

幸い母の姉夫婦が、先見の明があったのか、船浦にコーリャン、粟、稗、芋もいっぱい植えてあって、だから、私は畑を手伝って、芋をいっぱいもらって、そこから赤離まで歩いて、それから食べ物の心配がなくなった。

飛行機の来ないうちは海に行って、シャコ貝をいっぱい獲って、飛行機が来たら山の中に入って、シャコ貝の身を取りだして、それを塩漬けにして、私はそれを担いで祖納に行って、お米とバーターしてくるわけ。そんなことをしていました。

そうしているうちに、宇江城校長先生が機銃掃射で亡くなられたでしょ。奥さんはとっても優しい方で誰とでも話をしてくれて、兄弟も親戚もいないところで校長先生が亡くなってどうしているだろうと思ったらもう私は、可哀そうで、見に行った。

そしたら、小さな机に位牌と香炉を置いて、こんな田んぼの小屋でひとり泣いておられるんですよ。どんなお悔やみの言葉を申し上げていいか、何も一言も言わないで、泣くだけ泣いて帰りましたよ。

帰りながら思いましたよ。なんで、この教育勅語を持ってニシダ(西田)の山の中に避難しなければいけなかったのか、避難小屋に置かれたらよかったのに、とか。泣きながら帰りましたけどね。

私たちは赤離に避難していましたが、飛行機は私たちの真上を飛んで西のほうを空襲するんです。手を伸ばせば飛行機が掴めそうな、バーっと行って、バラバラと空襲するんです。

鳩間から山羊を持って行ったんですよ。弟たちがかわいがっていたので。ところが、空襲が終わって帰ったら、山羊がいない。探したら、内臓だけ捨てて、山羊を盗んでいった人がいる。弟たちが寂しそうにしていたことを今でも思い出す時があるんですよ。

こんなこともありましたよ。朝鮮の人でしたかね。朝鮮袋でキレイに洋服を縫って、チャイナボタンをつけた人でしたけど、白浜からマッチを持ってきてあげようね、と。それから何日かして、マッチと一緒に牛の燻製をいっぱい持ってきてくれたんですよ。

あとで聞いたんですけどね、牛を盗んで銃で撃たれた台湾の人がいると。牛の燻製を私たちにくれた人だったかねえと、母と二人で話したことがあったんですよ。この人の行方わからないですよ。

戦争が終わったのを知ったのは西表ですよ。赤離まで誰かが馬で知らせに来た。おじさんなんかが、「戦争終わりんきだ。日本ばよ、負きなんとぅ」と騒いでるわけですよ。私たちは日本が負けるなんて思わないですからね。「戦争負きなんてぃだー」って騒ぐから、すぐ鳩間に帰ろうといって、帰ってきましたよ。

私たちもみんなマラリアに罹りましたよ。まず氷を被ったように寒くなるわけですよ。そして今度は高熱になって、うわ言を言うようになる。そしたら、バケツ持って山の中から水を汲んで、頭に掛けてどんどん冷やす。熱が下がるとケロッとするわけですよ。

多くの人が亡くなりましたが、避難先よりも、島に帰ってから亡くなった人が多いですね。毎日亡くなりましたよ。

だけど、アメリカの黄色い薬で、あれでみんな助かりましたね。それを飲むようになってだんだんマラリアというのが消えて行ったわけです。幸いなことに、私たちは家族7人、一人も亡くなることなく、無事この戦争を超えられた。

●灯台の灯り

戦争に負けて、一斉にみんな帰ってきた。戦争に行っていた人たちも帰って来て、賑やかになった。また元に戻って、カツオ漁船が出る。イカ漁船がが出る。

いとこの兄さんが、灯台の灯りを大きくやるというので、「安子、お前もよ、兄さんと一緒にこれやろう。いっぱいお金もらえるよ」というから、鏡台を提供した。

この鏡台は、郵便局長の奥さんの形見。奥さんは私のおばで、局長さんが、あんたがいちばん手伝ってくれたからと私にくれた。

「鏡台を灯台に持っていってね、灯台に置いて、パーっと明るくしよう」というわけ。そしたら、そのお礼として船1隻から2斤ずつイカを貰った。私は大きな袋と秤を持って船に行くわけですよ。

誰も計ったりしませんよ。ハイハイ持ってけ、持ってけ、ですよ。さあ、これを拵えるのが大変。釣ってきた人よりも私たちが多いわけですよ。鏡の効果? そんなのわからないですよ。

こんなにして戦後が始まりました。

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