<日曜の朝に>シーミー(清明祭)と山陽姓一門

二十四節気のひとつ「清明」は、春分から15日目で今年は4月4日に当たる。字の如く「天地が清々しく、すべてのものが清らかで生き生きとした活気に満ちあふれる」(白井明大『日めくり七十二候』)時季。

この節に沖縄の多くの地域では、祖先供養のための墓参りがおこなわれる。シーミー(清明祭)という。『沖縄大百科事典』によると、1768年に「玉陵ニ喝シテ奉祭」したことが初めとされ、この年中行事は「門中やハラの親睦を深めるだけでなく、門中やハラにかかわる口承の歴史を伝授していくのに大きな役目を果たしてきた」という。

八重山では、祖先供養の墓参りは十六日祭のほうが盛んで、シーミーのときに墓参りするのはごく一部の旧士族系の一門の人たち。

「石垣市の旧士族系の家では、一門の人びとが大宗家または中宗家のシーミー・パカ(清明祭を行なう墓)に集まりシーミーを行なっている」「当日は、一門の者が親睦を深めるだけでなく、遠祖や一族の功績を語り合い、子どもに対し奨学用ノートを配って激励するなどのことも行なわれている」(『石垣市史民俗下』)という。

ところで、八重山の旧士族の始まりは、オヤケアカハチの乱後の論功行賞から。首里王府に忠誠を誓った長田大主信保や慶来慶田城用緒らが士族に取り立てられた。士族となった彼らは、子孫の名前の頭にそれぞれ自分の「信」「用」などの字を用いて一門を築いていく。「信」の字のつく一門を長栄姓一門といい、「用」の字のつく一門を錦芳姓一門という。

一門はほかに、「長」の字の山陽姓、「永」の字の嘉善姓、「直」の字の順天姓、「正」の字の上官姓、「孫」の字の梅公姓、「安」の字の毛裔姓、「賢」の字の夏林姓、「高」の字の大史姓、「英」の字の憲章姓など全部でおよそ60の一門がある。

上の写真は、1934年(昭和9)年、山陽姓一門のシーミーのときの様子である(宮良長吉氏提供)。場所はブンニの山陽姓本家の墓。写真中央で踊っているのは宮良長暢氏。墓前に二重三重と一門の人たちが車座になって、その外側には大勢の子どもたちが陣取っているのが見える。

下の写真は、現在の山陽姓本家の墓。本家の当主宮良長明さんに案内していただいて、いろいろ話をうかがった。おおよそ以下の通り。

年に一度、清明の節のころ、みんなが集まりやすい土曜や日曜に本家の墓に集まった。今はそれぞれ車でやってくるが、昔は貸切バスを出して、新川のツンマーセから登野城の端までまわってみんなを乗せた。

すべて一門会が中心になって計画し実施する。日取り、墓の掃除(かつては長延や長重の頌徳碑の掃除も)、ブガリノーシ、会費、みんな。

一品携帯で集まって、それぞれのお初をとって墓前に供え、酒を供え、花を飾り、線香を焚いてみんなで手を合わせる。一門会会長のあいさつ、本家のあいさつが済むと三線や踊りなどの余興。

子どもたちにとってはとても楽しみな行事だった。学事奨励といってノートと鉛筆がもらえたし、てんぷらを食べることができて嬉しかった。紙芝居、手品などもあって面白かったし、野いちご、バンシル(グァバ)、月桃の花を取ったり、彼や彼女も同門だったんだと楽しい発見もあった。

昔は50~60人くらい大勢集まって、墓前がいっぱいになるくらい二重三重になって座ったが、今はひと回り、20人くらい集まるか。

大宗の宮良親雲上長光は、オヤケアカハチの乱のときに殺された那礼当(長田大主の弟)の子孫だと言われているが、沖縄の第一尚氏の流れだとする説もある。

「子どもに名前を付けようとして系図を見たら、もうみんな出尽くしていてまいったなあ。また(大宗の)長光から順繰りに行くかとも考えたけど、けっきょく長(おさ)の一文字だけにしたよ(笑)」

「ヤマトに行っても、名前に長の字が付いていたら、あ、ひょっとしたら、と思うね。現在は祖先のことなんかわからない人が多いけど、祖先を尊ぶ、誇りに思うことはいいことだからね、大切にしていきたい」

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