<日曜の朝に>テッポウユリはどこへ行った?

やいまタイムには『八重山手帳』のデータを入れ込んである。日付の下の「今日の暦・歴史・天気」を開くとその日の暦データや天気はもちろん、記念日、生物暦、それに「今日の日の八重山の10年間の主なできごと」も知ることができる。併せて「スケジュール情報」を参照すればさまざまに活用できる。

例えば学校の先生であれば、今日の日がどんな日であるのかどんな予定があるのか子どもたちに教えたり、また、クラスや学校の月間計画・年間計画を立てたりするのにたいへん便利である。じつはこのコーナーのネタ探しもほとんどこれを利用している。

目に留まったのが3月30日(木)。「サニズ(浜下り)、アカハチ慰霊祭(石垣島・大浜)、テッポウユリ開化の頃(石垣島)」とある。いずれもネタになりそうだが、今回はテッポウユリを取り上げることにした。御神崎のテッポウユリのことを思い出したからだ。

御神埼にはかつてテッポウユリが絨毯のように一面真っ白に咲きほこっていたことをご存じだろうか。ところが今や当時の面影はまったくなくなってしまって、時季になるとぽつぽつと散見されるばかりだ。

先日、御神崎にテッポウユリを探しに出かけた。花は咲いていなかった。まだ時季が早かったようだ。10数株みつけたが、海風を避けるように地面に這いつくばるように生えているか、灌木の中に隠れるように生えていた。蕾をつけた株が2つあった。やはり3月30日くらいに咲くのだろうか。

テッポウユリはどうして消えていったのか。石垣市立図書館の新聞検索システムをつかって「テッポウユリ」を検索、新聞にあたった。このシステム、優れものだが、索引づくりの作業が中断しているのがもったいない。継続して欲しいと思う。
新聞によると、以下のような経緯をたどったようだ。

「東シナ海の海風をまともに受ける御神崎は元々からユリの名所」であった。石垣市が観光の新名所にと計画した御神崎修景緑化事業は1984年度にはじまり、テッポウユリ、シャリンバイ、クサトベラなどを植栽し「雄大な自然景観に加えて、ユリの群生で心なごむ住民の”いこいの場”」にしようというものだった。

植栽のうちの約9割はテッポウユリ。4年間に12万6千個の球根が植えられた。そのため、「翌年春からは、これらのユリが一斉に純白の花を咲かせ、毎年、春になると訪れる人たちの目を楽しませ」た。1987年10月には御神崎への侵入道路が舗装され、駐車場、トイレなどが整備された。春になると人々が集まり、まさに計画通り、と思われた。

ところが、植栽から5年後の1989年には花の数が目立って減り、1990年の春には「長雨のせいか、発芽率が悪く、当たり一面ユリの花という光景は見られない」「斜面にポツ、ポツと咲いている」と新聞は報じている。そして1993年には「すっかり姿を消してしまった」のである。

どうしてそうなったのか。テッポウユリの球根の購入先に問い合わせると「公園用に改良されたユリのため、三、四年経過すると球根が衰え、花も減ってくる」ものだという。「バイオ栽培された球根は一年きりで、翌年からは花芽を形成しない」とも新聞は書いている。

これではいけないと石垣市観光課と石垣市観光協会青年部が動き出し、1992年から5年計画で「テッポウユリの花園を再び!」と野生のテッポウユリの球根を採取して移植する作業を始めた。93年、94年とも各3千個の球根を植えた。

「御神崎がテッポウユリで埋まるまで、根気強く活動を続けたい」と当時の観光協会青年部広報委員長は力強く語ったが、残念ながら移植は成功せず、テッポウユリの白い絨毯は再現しなかった。「市観光課によると切り花で取る人のほかに球根を根こそぎ取り去る人もいるという」と新聞は報じた。それも原因のひとつだったのか。

緑の丘にテッポウユリのスッと首を伸ばした匂い立つような白い姿形。もう少し温かくなったら、もういちど探しに来ようか。

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