十六日祭の由来

十六日祭のことを、石垣方言でジュールクニチィ、竹富ではジュールクニチサイという。『竹富方言辞典』は「旧暦一月十六日に行う祖先供養祭。ご馳走を作り墓前に供え、家族そろって墓の前で祖先を祭り供養する。親戚がそろって、サンシン(三線)で歌舞をなしにぎやかに遊ぶ」とその内容を紹介している。

『沖縄大百科事典』の「正月十六日」の項に「正月元旦がイチミ(生身)の正月であるのにたいし、グソーの正月であるといわれている」と記されている。グソー(後生)は八重山ではグショーという。

この「十六日祭はグショーの正月」という説に対して、山根慶子さんは、由来を考えればこれはグショーの正月というよりも「供養の行事」であると書いている。その由来というのは次のとおり。山根さんの著書『茅花流る2』から。

昔孝行者の息子がいたそうだ。
親を亡くして悲しく淋しいので、一月十六日の月夜に御馳走をこしらえて墓へ行き、墓苑で泣いていたら亡くなる前の父親が現れ、息子とグシ(酒)を酌み交わし肴も食べて話もし一刻を楽しんだのである。だが翌日、息子は昨夜のことが夢か現か定かでないので、まずは墓へ行ってみようと来てみれば、なんと昨夜喜んで食べてくださった食物は墓前にこんもりと残っているではないか。そこで孝行息子は思った。一月十六日は後生の人もこの世の人も一緒に通じ合い分かち合える日であると悟り、それからは来る年も来る年もお重を持って墓参をした。伝え聞いた村人たちもそれを習い墓参りをして、今日に伝わっているという。(p19)

山根さんは「孝行息子の供養から始まって今日に至っている事の由来は、あくまでも供養の行事であるはずなのに、誰が言い出したか『後生の正月』がまかり通っている」と。

喜舎場永珣、宮良賢貞にも十六日祭についての文章がある。その由来について次のように書いている(要旨)。

喜舎場永珣。
琉球王府時代。正月十五日、首里城の守礼門と中山門のあいだで競馬がおこなわれ、翌十六日には那覇の潟原で多くの観衆を集めて競馬がおこなわれた。ある年の十六日、亡夫の一周忌にあたった女性は脇目も振らずに夫の墓参り。競馬見物から帰る観衆が墓参するこの女性を見て影響を受け、多くの人が翌年の十六日からは供物携帯で墓参をしてから競馬見物をするようになった。その後首里では旧暦一月十六日に墓参して祖先崇拝をするようになり、それがだんだん地方に伝えられた。(『若い人』1950年3月号「十六日祭」・『八重山民俗誌上巻』p262)

宮良賢貞
唐の元宵祭(灯籠祭)は正月14・15・16日に行われた。14日は鬼灯と唱えて幽魂に供え、15日は神灯と唱えて神々に供え、16日は人灯と唱えて諸人の灯籠覧に供えられた。奉灯は豊登に通じ、これは豊年祈願の行事であった。その行事が18世紀頃琉球に伝わったが、14日と16日が混同して、16日の祖霊供養に変化した。地方では灯籠の形跡はない。(『海南時報』1957年2月11~13日「旧十六日祭起源考」・『八重山芸能と民俗』p354)

じつは、喜舎場永珣の先の文章の中に、「十六日祭は祖先の正月」という言葉が出てくる。次の通り。

沖縄本島では現在、「ミーサ」(新仏)といって前年十六日祭以後に亡くなった新仏のある家だけが、墓参してお祭りを行うように中途から改善されていて、前年十六日祭以前に亡くなった旧仏の家では、其の代り清明祭が盛大に行われている。那覇では三年忌までをミーサー(新仏)としてお祭りをしている。或る時代から那覇では、十六日祭は祖先の正月といって、墓前に走馬灯(回り灯籠)を吊して祭る習慣となっている。

喜舎場永珣の文章「十六日祭」は1950年に書かれている。1983年刊行の『沖縄大百科事典』の「正月十六日」の解説は喜舎場永珣のこの文章も参考にしていると思われる。

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