1月15日午後6時から市民会館大ホールで、「琉球國祭り太鼓八重山支部30周年記念感謝の夕べ~ばがーしんか かふーぬ うどぅい~」が開催され、同会館駐車場が満員となる来場者が会場の座席を埋めていた。
大ホールの入り口前では、入場する人が列を作り、またロビーにも人が溢れて、人気の高さを示していた。
演目は、プライストゥペイではじまり、力強い舞台が披露されると、会場は突如沸き返って感謝の夕べの幕開けにふさわしい盛り上がり方を見せていた。
2曲目は、八重山での座開きの代名詞でもある「鷲ぬ鳥節」が、落ち着いた調子で太鼓が打たれ、荘厳な雰囲気の中で演舞がおこなわれて、バリエーションの多彩さを見せていた。
「瀧落とし」、「泡瀬」と鋭く激しい演舞が続き、「山崎ぬあぶじゃーまfeat.池田真作」では、客席からアブジャ―マの面をつけた演者が続々登場して、突然の出現に観衆は大いに沸いていた。
このあと13の演目が綴られ、来場者を喜ばせていた。
来場した高齢の女性は「パーマ屋さんの友人を介して券を入手できたのが、皆が知っているあの琉球國祭り太鼓の舞台だというので、楽しみに来ました。家族で見られてよかった」と、コロナ禍でイベントが少なかった時期が長かったせいもあり、久々のイベントに観衆は多いに沸いた模様。
八重山支部結成から、様々なイベントに顔を出し、石垣島まつりのパレードの最後尾にいるのが定番になっている琉球國祭り太鼓八重山支部。支部員は大人が6人に中学生以下が19人で構成され、この日にOG・OG20人がサポート。宮古島からのサポートに16人が入り、沖縄本島から8人。また県外から札幌支部、宮城支部、関東地区、栃木支部、千葉支部、茨城支部、東海地区、愛知地区と全国から支援が来ての舞台となって、81のメンバーが豪華な舞台を見せて、感謝の気持ちを示していた。
琉球國祭太鼓は1982年に泡瀬の青年が中心に結成。現在、全国47支部、世界には6か国28支部に広がっている。八重山支部は1992年12月に結成され、昨年12月に30周年を迎えて、今回の感謝の集いが開催された。初代八重山支部長の桜井真弓さんや、沖縄本島からわざわざ移住を決断した新垣克子さんらの活動は、島での無からの出発でもあり、手探りで続ける苦労は予想できる。
情報やいまもまた1992年が創刊の年。730交差点からの旧空港へのバイパスがなかった時代から、八重山の変化を見てきたものとして感慨深さを思う30年でもある。
ただ、琉球國祭り太鼓の、この間の躍進は凄いの一言。
月刊やいま(当時は月刊jaima)1993年5月号の22ページに、単身で石垣島に来た新垣克子さんに関する記事がある。
エイサー好きな新垣さんが滋賀県の短大を卒業して帰郷すると、地元青年団が解散していたという。そこで沖縄本島中城の琉球國祭り太鼓を知り加入。その後、保母さんの仕事をしながら、エイサーの練習に励んだという。そんなある日に、石垣でやりたいという人がいるが、誰か教えにいかないかという誘いがきて「男の人は簡単に仕事を辞められないから」と、自ら移住を決断したという。太鼓への情熱がそこにある。
この記事から、エイサーをやりたい人が離島へ、全国へ、そして世界へ広がったのは、このエイサー好きな人の情熱であるのが、わかる。
大太鼓だけで編成し、男も女も、太鼓を打ち鳴らす。その迫力が人に与える心の波紋が、元気が、世界に広がった。情熱ありきであった。琉球國祭り太鼓が初めて海を渡ったのが八重山支部だと、琉球國祭り太鼓創設者の目取真武男は述べている。
記事には新垣さんが、織り物の仕事(みね屋工房)をしながらエイサーを教えていたとある。
この日、開場の冒頭でみね屋工房から衣装や太鼓の寄贈の紹介があった。分かる人には大事な発表だった。
(流杉一行)