<日曜の朝に>仲松浩次吉原公民館長に聞く

●むかしの吉原

吉原集落。宮古島からの開拓移民によって開かれた集落である。
1953年(昭和28)年6月12日、宮古の城辺、下地、平良、上野、来間から48戸228人が入植した。来年は入植65年である。

仲松浩次公民館長(66)は入植時2歳半の赤ちゃんであった。父・恵勇さんは開拓団の総務だった。仲松さんの記憶に残るいちばん古い吉原の風景は4歳ごろのもの。

「ジャングルを開いて、砂漠のようなところに、同じような小さな掘っ立て小屋がポツン、ポツンと建っていた。48戸。そのへんで遊んで、帰るときに自分の家がどこなのかわからない」
屋敷を仕切る塀はないし、大雨が降ったら山からの水が家の中に流れ込んだ。

「毎日木の根っこ取り。伐開して、木は集めて焼いて腐らせて、大きな木の根っこはしばらくそのままにしておいて、新しい枝が出てきたら、その枝を鍬で潰す。そして枯らす。みんな人力ですよ。小学生になってもまだ根っこ取りがありましたよ」

傾斜地の多い砂地だった。
金城朝夫『ドキュメント八重山開拓移民』は
「砂地の吉原にとって、土作りが大きな課題となっていた」
「一戸当たり三千円あった営農資金補助金を個人では使わず、徳之島黒毛和牛十三頭を導入畜産のスタートを切った」
「『村おこしは畜産で堆肥の増産から』と始めた運動は各方面から注目を集めた」
と記している。
作物はキビが中心。パインの栽培には適さない土壌だったので、パイン景気の恩恵とはあまり関係なかった。

「一晩でイノシシにぜんぶ荒らされたり」もしたが、イモは大事な食糧だった。
「朝4時ごろに起きて、馬車にイモを積んで、3時間くらいかけて街に売りに行ったが、いくらもしなかった」。ちゃんとした道はなかった。

「自分は使いやすかったんだろうな、起こされるんだよ、6時半に。こんなにでっかいシンメー鍋にイモを煮る。薪を絶やさないように火にくべて、1時間ぐらいかかるからね。自分たちが食べて残ったのは家畜のエサ」

入植の翌年には川平小学校吉原分校ができた。
「自分らが小学校に入る頃は生徒数も増えて、48世帯の集落で70名以上はいましたよ。ウチの同年だけで20人いたからね。いちばん多かったね」

学校から帰ると家畜(牛、馬、山羊)の草刈りが待っていた。
「小学3、4年からはもう一人前だよ。自分で馬に鞍をかけて、馬車をもってね。馬車は重いから後ろに何か重たいものを乗せてなんとか上げてね」
草を刈ってないと「家に入れてもらえなかった」

「夕方になったらランプの準備、これも子どもの仕事。それから、口の広いハエ取り瓶があったけど、石鹸水が入れてあって、口から落ちたハエが石鹸水に浮いている。これを掃除するのが大変だった。2日もするとすごい臭いがして、これを洗うのがもう嫌だった」

中学校は川平へ。3年間自転車で通った。クラブ活動はやらなかった。
「あんなクラブ活動なんか必要ない、学校に通う以外は畑仕事やりなさいとほんとに厳しい親だった。畑仕事も中学生からは大人以上にやったよ」

楽しみは「お正月のご馳走と映画」だった。

●現在の吉原

仲松さんは、中学校を卒業して沖縄本島で就職し、万博のころ本土に転出。1980年(昭和55)に石垣島に戻ってきた。一周道路の整備事業がおこなわれているころだった。
「過疎化していた。これからどうなるだろうと思うくらいだった」
「若いのは街に勤めに出て、年寄りが農業をやっていた」

『ドキュメント八重山開拓』は、次のように書いている。
「一九六三年までは五七戸三〇四名いた人口も、八三年には三〇戸一〇一名に落ち込み、学校も一時は三名までになった」

仲松さんはしばらく吉原で父親の農業を手伝ったが、「飯が食えない」ので街にでて暮らし、「子どもたちが学校を卒業したので」1999年(平成11)に吉原に戻った。
集落に何世帯かの「新しい移住者」が入って来ていた。集落の雰囲気が以前と「ちょっと変わってきていた」

2001年のNHK連続ドラマ『ちゅらさん』放映のあと石垣島は移住ブームとなり、多くの移住者が入ってきた。吉原のヤマバレー地区には移住者の新しい集落ができた。各地で元からの住人と移住者の間で軋轢が生じている。

吉原集落ではどういうことが起きているか。

仲松公民館長は言う。
「公民館に加入してメリットがないといって加入しない人がいる。地域にメリットだけを求めるというのもどうかと思うね」

吉原集落は現在約40世帯。公民館に加入しているのは約30世帯だという。
「開拓当時から地域美化のためにみんなで大掃除をやっているんですよ。移住者が増えるのはいいのだが、地域に来れば地域に馴染まないといけないと思うけど、自分たちに関係ないとか、作業をするのが嫌なのか、自治会費を払うのが嫌なのか…。逆にただ自治会費を払っていればいいという人もいるし」

「地域の人間関係がよくなればいいなと思っている。それだけ。自分の生活はそれぞれ自分でやるからいいとして、人間関係のいい地域であってほしい。そのためには公民館が中心になって、地域がまとまる必要がある」

「星を見るために街灯はいらないという人がいるけど、こっちにはハブもいるんだから、ところどころに街灯がないといけないですよね」
「自分の家は作っておきながら、後から他人がつくろうとすると反対する。自分だけの世界ですよね」と仲松公民館長は言う。

「自分だけの世界」は「それぞれ自分でやるからいいとして」、それを他人や地域に強要するのは迷惑で、むしろ「地域に来れば地域に馴染まないといけない」ということなのだろう。

●川平地域景観地区指定

2010年(平成22年)に石垣市が告示した「川平地域景観地区」についても同様な意味で反対している。

これは、川平全域(約1850ヘクタール)を景観地区指定し、建築物は高さ7~10メートル以内、赤瓦の使用、敷地の50%以上は緑地化する、外壁の色の制限などを定めたもので、条件を満たさなければ建築許可が下りないというもの。

「これじゃ金持ちしか住めないですよ。移住者はいいかもしれないけど、農家は車庫も倉庫も作らなきゃいけないのに、50%の緑地地帯はつくれないし、歳をとったらその緑地地帯を誰が整備するの? 吉原公民館は反対です」

この景観地区告示にはもうひとつ問題があった。吉原公民館の意見を聞かずに告示したというのである。2010年3月24日の八重山毎日新聞に、
「吉原公民館の仲松浩次館長は『全然聞いていない。これでは困る。住民の言い分を聞かないで勝手に決められては困る』と怒りをあらわにした」とある。

その後、吉原公民館はこの景観地区についての見直しを石垣市長に2度要請し、今後見直すことになっていると仲松公民館長は言う。

「山にユンボを入れていると、すぐ、自然破壊だ、開発だという人がいるけど、その山裾は昔のパイン畑で、整地しているだけということがよくある」と言う。

重要なのは、実情を正確に把握したうえで、正しい判断をするということだろう。そういう意味で景観地区の詳細な内容の見直しがなされるべきだし、一方、景観指定のもつ重要性もまた認識する必要があるだろう。

観光で未来を展望しようとする石垣市ならば景観指定は必要であるが、その内容については、地域や個人の実情も勘案して決めるべきである。

●吉原日曜市

さて、先の『ドキュメント八重山開拓移民』は、
「かつては、元団長の下地豊吉氏を石垣市議会副議長として送り込むなど、移民地のなかでは多くの指導者に恵まれてきたまとまりの固い移民地である」と吉原を評している。

仲松公民館長は「地域がまとまる必要がある」と話している。「人間関係のいい地域」をつくるためである。ひとつの方法として吉原日曜市を考えた。岐阜の朝市をヒントに、2001年にスタートさせた。

「やっぱり場所づくりですよね。コミュニケーションがとれる場所。昔は、自然にコミュニケーションができていた。みんな貧乏だから、お互い協力し合わなければならなかった。ユイマールで仲良く話ができた。今は、週に一度でも集落の人が顔を会わせる場所が必要じゃないか、そう思ってね」

吉原日曜市は毎週日曜日、午前10時から完売(だいたい午後3時ごろ)まで、吉原公民館で開かれている。

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