山之口漠と八重山

お国は? と女が言った。
さて 僕の国はどこなんだか とにかく僕は煙草に火をつけるんだが 刺青と蛇皮線などの聯想を染めて 図案のやうな風俗をしているあの僕の国か
ずつとむかう
ずつとむこう とは? と女が言った。
それはずつとむかう 日本列島の南端のちょっと手前なんだが 頭上に豚をのせる女がいるとか 素足で歩くとかいふやうな 憂鬱な方向を習慣しているあの僕の国か!
南方
南方とは? と女が言った。
南方は南方 濃藍の海に住んでいるあの常夏の地帯 龍舌蘭と梯梧と阿旦とパパイヤなどの植物達が 白い季節を被って寄り添ふているんだが あれは日本人ではないとか日本語は通じるかなど話し合いながら 世間の既成概念が寄留するあの僕の国か!
亜熱帯
アネッツタイ! と女はいった。
亜熱帯なんだが 僕の女よ 眼の前に見える亜熱帯が見えないのか! この僕のやうに日本語の通じる日本人が 即ち亜熱帯に生まれた僕らなんだと僕はおもふんだが 酋長だの土人だの空手だの泡盛だのの同義語でも眺めるかのやうに世間の偏見達が眺めるあの僕の国か!赤道直下のあの近所

この詩は『定本山之口貘詩集』に「会話」という題で収められている。
貘さんは三度目の上京をした昭和二年の頃、東京・芝の日影町通りにあった『ゴンドラ』という喫茶店に入りびたり、十銭のコーヒーで毎日頑張っていたようだ。その店の常連であった或る役人が、沖縄へ出張した土産話として「酋長の家に招かれて、バナナだのパパイヤだの泡盛だのを御馳走になって大変な歓待をうけた」と話していた。その話を女将や娘さんらが珍しそうに、目を輝かせて聞いていたので見て、困った貘さんがよんだの詩のようだ。(山之口貘『僕の半生記』より)
このなかでいわれている「お国は南方」は、蓋し八重山を含めた沖縄のイメージを込めたものでもあったのだろうが、ヤマトの人々の沖縄に対する無知と、率直に沖縄と言えない時代へのもどかしさが反映されていたのではないだろうか。

抗議詩で中学校を中退

ところで、山之口貘(バク)とはいったい何者であるか。貘さんの『僕の半生記』や年譜から、その人柄をみてみよう。
貘さんの本名は山口重三郎。明治三十六年(一九〇三)九月十一日、沖縄県那覇区東町大門前の生まれ。那覇甲辰小学校から県立第一中学校に入学したが、大正九年(一九二〇)琉球新報に掲載された抗議詩『石炭』が職員会議で問題になり、中学四年で中退した。
『石炭』の詩は「サムロ」のペンネームで発表したもので、博物の坂口先生が「石炭にも階級がある。無煙炭、泥炭、かっ炭などと階級がある。ましては人間社会に階級があるのは当りまえ」と言ったことに対し、「むしろ人間に白色、黒色、黄色の差別があるようなもの。石炭に階級があるというのは馬鹿げた事だ、というような抗議詩だった」(僕の半生記より)
当時、鹿児島の第百四十七銀行八重山支店長であった父・重珍の鰹節製造業が潰れ、一家離散、父は長年勤めた百四十七銀行を辞め、産業銀行の支店長として八重山に移り住んでいた。場所は大川・郵便局の南側にあったようだ。この銀行を島の人々は「山口銀行」と呼んでいたという。
貘さんは、大正十一年二十歳のときはじめて上京、日本美術学校に籍を置いていたが、翌年九月一日の関東大震災にあい、罹災者恩典で帰郷。二十二歳のときに再度上京したが、震災後の東京には職も無く、まもなく帰郷し沖縄本島の親戚や友人の家を転々、一時父母のいる八重山で過ごしている。その頃サムロ、佐武郎、三路などのペンネームで作品を『八重山新報』に発表していたようだ。また伊波南哲氏らと八重山では初めての同人誌『榕樹』を発行していたともいわれる。

放浪の中の東京生活

二十五歳になった昭和二年、三度目の上京後、詩人サトウ・ハチロウらを知るが、定職が得られず、書籍問屋の荷造人、暖房屋、お灸屋、墨田川のダルマ船の鉄屑運搬助手、ニキビ、ソバカス薬の通信販売、汲み取り屋などさまざまな仕事をしながら、寄る辺ない放浪・貧乏生活のなかで詩を書き続けた。その頃ペンネームを「山之口貘」としている。
昭和二年の頃詩人佐藤春夫に出会い、才能と人柄を愛され、しばしば生活上の支援を受けている。当時、貘さんは工事用の土管に寝たりして放浪生活を続け、巡査に訊問されたりした。見かねた佐藤春夫は名刺に「詩人山之口バクは、風体いかがわしきも性温良にして善良なる市民なり、右証明す」と書いてくれたという。このことを聞いて感激した伊波南哲は、当時勤務していた警視庁巡査の肩書のある名刺に「詩人山之口バクは小生の親友にして云々」と証明書を書いてくれたといわれる。
昭和六年四月、佐藤春夫の紹介で雑誌『改造』に「夢の後」「発声」の詩をはじめて発表、以後『中央公論』『新潮』『文芸春秋』などに次々発表、昭和十三年に第一詩集『思弁の苑』を、二年後には『山之口貘詩集』を昭和三十三年『定本山之口貘詩集』発行した。改造出版部には、当時比嘉春潮氏がいた。東京での貘さんについて、新屋敷幸繁氏は「東京に出て来て定職もなく、貧しい生活の中をいかに心豊かに生きていくかということで貘さんは、贅沢な貧乏詩人といいますか、あれだけ特殊な詩人に出来上がりました」と同県出身者である、詩人として安定した沖縄の顔・伊波南哲と対比して述べている。(伊波南哲氏追悼の辞)
東京の池袋に沖縄料理店『おもろ』がある。その当時を知る人々の話によると、土曜日の晩は<沖縄民謡の夕べ>が催され、伊波南哲が三線を弾き唄う、画家の南風原朝光が太鼓を、山之口貘が手笛を吹きながら踊ったという。当日、観客は店の前の道路にはみ出す程大賑わいで、壇一雄、中島健蔵ら文人が常連だったようだ。

三十五年ぶりで帰郷

八重山には昭和三十四年十二月二十二日、CTA機で戦後はじめて帰郷した。三十五年ぶりだった。私は当時海南時報記者で貘さんを飛行場で出迎えた。貘さんは、ベレー帽に茶色の背広、メガネをかけ、とても゛貧乏詩人〃などとは見えなかったが、夫人とひとり娘さんがとても来たがっていたそうだが、「経済的な理由で実現出来なくてね」と寂しそうだった。しかし「三十五年ぶりの八重山である。生まれてはじめて飛行機に乗り、空から降りたのである。飛行場には、南風原英育さんや若い人が僕を迎えてくれた」と来島の記を海南時報に載せている。
滞在中、貘さんは八重山高校や、教職員会で講演したり、石垣島を一周観光、地元の歓迎会に出席するなど多忙なスケジュールをこなしていた。また当時、石垣島測候所に勤めていた甥の一郎氏と八重山厚生寮を訪ね、長兄・重次郎氏に会ったり、与那国から駆けつけた実弟・重四郎とも久しぶりに会って、昔の想い出に目を潤ませていた。

太い気持ちで、心豊かにユーモアに半生語る

貘さんは滞在中、八重山高校から招かれ十二月二十二日同校講堂で講演した。その要旨を海南時報は次のように報じていた。
貘さんは浮浪・ルンペン時代のエピソードを披露、「おわい屋(糞尿汲み取り)もやった。こんなことまでして生きなければならないのか、という気もしたが、その度に心の中の詩人・山之口貘が励ましてくれた。糞尿汲み取りはなるほど臭い仕事ではあるが、僕の口から臭いというほど人生は甘いものではなかった。しかしそれを真似しなさい、ということではない。どんな時でも太い気持ちを持って心豊かにやり遂げた」とユーモアのなかにも教訓を交え感銘を与えた。講演の最後に貘さんは自作の詩「ものもらいの話」「はなのある結論」を朗読、拍手を浴びた。
また、教職員会主催の講演会では「詩と生活」のテーマで、ものもらいの話や詩人佐藤春夫氏とのエピソードなどのユーモア談義に、満場、拍手と爆笑が巻き興っていた。

もとの髪に戻してくれ

講演や観光、歓迎会とハードなスケジュールに疲れたのか、貘さんは「ダンパチしたい」といわれた。私は大川の池村鍛冶屋通りの東側にある散髪屋に案内した。店の名は確かでないが、[ナイル]とか[ブロンド]とかだったと思う。
チャキ チャキとリズミカルな鋏の音とともに貘さんの長髪のバサバサ毛がみるみる短く切り落とされていく。ウトウトしていた貘さんは、洗髪が終わりポマードをつけてもらい整髪が終わるまで、快い鼾をかいていた。「もう終わりましたよ」と理容師さんに肩をたたかれた貘さん、目覚めてびっくり仰天「これは大変!自分ではない!」と叫んだ。鏡に写っていた貘さんの髪形は、べっとり塗り込められたリーゼント風だった。貘さんは言った、「洗ってもとの髪にしてください」。
散髪屋でみせた貘さんの人柄を語るエピソードである。

石垣、福木は残るが、方言は消失 -貘さんの目、『八重山紀行』から-

貘さんは、八重山滞在五日間の日程を終え十二月二十七日那覇に帰ったが、海南時報に『八重山紀行』を寄せている。貘さんの目にどのように八重山が映ったか。行間を縫って見ていくことにしよう。
「台湾系といわれるCAT機に乗って、僕は那覇空港を朝九時に飛び立ち、八重山の石垣島へ向かった。機上から鳥瞰する珊瑚礁の美しさ、エメナルドブルーあるいはチョコレートというか、色とりどりに染まり、島の緑、土の色すべてが鮮やかな色彩だ。生まれはじめての飛行機て、祈るように目を瞑り機上の人となったが、下界は軟らかな毛氈を敷いたようだ。飛び下りてもやんわりとこの二本の足で立つことができそうだ。山ひとつない宮古島で十五分間翼を休めた後、三十九分で石垣島に降り立った。石垣島は大正の末のころ、僕はこの島でしばらくの間過ごしたことがある。祖父をはじめ父も母もここで地球を捨て去ってしまったが、現在はすぐ上の兄と、弟の長男がいるのである」

懐かしい福木や石垣

「石垣市は昔と変わらない町で砂地の道路がそのままだ。どの屋敷も石垣でかこわれていて、方々の屋敷内にそびえている福木がまた懐かしい。変わったといえば、タクシーを見かけることだ。だが指の数より少ないかもしれないタクシーが石垣の間を縫って走る風景にユーモラスな味があって、おそらくこの町でなくては見ることのできない風景なのだ」

八重山方言を耳にしない

「町の人たちは、ここも那覇と同じで和装か洋装。そしてまた八重山の方言をほとんど耳にしないのだ。教育はむろん全沖縄がおんなじで日本の教科書によっているのである」
因みに、貘さんの詩『弾を浴びた島』を紹介する。

 島の土を踏んだとたんに
 ガンジューイとあいさつしたところ
 はいおかげさまで元気ですとか言って
 島の人は日本語で来たのだ
 郷愁はいささか戸惑いしてしまって
 ウチナーグチマデイン ムル
 イクサニ サッタルバスイというと
 島の人は苦笑したのだが

 沖縄語は上手ですねと来たのだ

この詩は、戦後那覇に帰郷した時の率直な気持ちをあらわしたものだが、八重山に来島した時もおそらく、かつて聞きなれていた八重山方言が聞こえなくなっていたことに同じような感懐をもったのではなかろうか。

牛の向きで気象を知る

「八重山滞在中の一日、僕(貘)は地方庁長仲本信幸、宮良賢貞、大濱津呂、南風原英育の四氏の肝入りで、石垣島を一周した。一行は右に太平洋、左に東シナ海が見わたせる幅500のメートルの地を過ぎ、やがて緑の山肌に牛の群れが眺められる放牧場に着いた。車内の誰かが、なるほど今日はよい天気だ、と言ったが、牧場の牛の頭が一斉に北へ向っているからとのことである。この界隈では、つまり、牛が気象台の代わりみたいにしているとの話である」

一大観光地を夢見る

「北部からの帰途は西海岸を通った。仲本庁長はたびたび車窓から乗り出すみたいな格好で、田に水が張った。よかった、よかった。と胸をなでおろすのである。米軍用地問題に巻き込まれて、仕方なしに沖縄本島から移住してきた、移民地の人たちの手による開拓地だったからである。僕は胸をなでおろす庁長の心中を祝福しないではいられなかった。僕(貘)は石垣市に戻って、この島が珊瑚礁の上の一大観光地になる夢をみていた」
貘さんはその生涯を、さまざまな職業を転々としながら、戦前・戦中一貫して戦争賛美の詩を書くことなく、終生平和と沖縄を愛し続けた偉大な詩人だった。最期は、胃癌で東京新宿区大同病院に入院、昭和三十八年(一九六三)七月十九日死去。享年六十四才だった。墓は、千葉県松戸市の八柱霊園にあって、『山口家之墓』と刻まれている。(完)

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