対談 静子・アウエハント×玉城功一

東京オリンピックからアテネオリンピックまでの40年の時を費やし、写真集『波照間』と『HATERUMA』の出版を記念して写真展が開催されました。故・コルネリウスアウエハントさんの奥さんの静子さんと玉城功一さんに当時を振り返ってもらいました。

静子・アウエハント(右)
1938年 京都府に生まれる
1960年 同志社大学卒・6月コルネリウス・アウエハントと結婚
1965~66年・1975~76年アウエハントと共に波照間島調査
1968年~86年 スイス・チューリッヒ大学日本語講師。同時通訳で活躍
現在 ライデン大学日本学研究協会会員

玉城功一(左)
1937年波照間島に生まれる。1960年琉球大学卒。1960年~1972年郡内小中校勤務。1973年~1997年郡内3高校勤務。1998年定年退職。現在竹富町史・古謡編集委員

波照間島に行ったきっかけ

玉城功一(以下、玉城)
 静子さん、今度の『写真集』出版、そして、『HATERUMA』の出版、本当におめでとうございます。すばらしい本ができました。いろいろこの出版に至る経緯をお聞かせください。

静子・アウエハント(以下、アウエハント)
 主人は柳田国男先生を非常に尊敬しておりました。その先生から「日本の神信仰について源を探るならば沖縄へ」と言われていたのです。主人の長年の親友だった都立大学教授の馬渕東一氏から「それなら神高い波照間島へ行きなさい。波照間島はいろいろな変化の波が余り押し寄せなかったから、とても原初的なものがまだ厳しく守られている」と助言されました。神行事といってもここは農耕儀礼ですから、始めから終わりまで9カ月いないといけない。一人であちこちに行って飛び石のように歩いて島々を比べるのではなく、まずひとつの島で詳しく調査して、初めて何かが分かってくるのではないかという信念のもとに、「自分がともかく波照間でやり始めますから、皆さんよろしく」と呼び掛けるつもりだったのです。
 ところがこちらの方の行事は男に禁じられているものが多い。まず、主人が考えたのは女房を連れて行かないと、ということで私も政府から正式に助手として助成金をもらったのです。私も神信仰の家で大きくなりましたので、決して神様に失礼になることはしたくないです。何百年と面々と受け継がれてきたこの神信仰の形を記録させていただきたいということ。けれども、何か同時に、これは私のための御用でもあるような気がしたのです。ともかく神司の方にお願いして、ウガジィといって米粒で「神のお籤」をひいてもらったら、「すべて良し」と出たわけです。それなら安心というので、写真も録音もよろしいということになったのです。それでも私は心配でした。決して出過ぎてはいけない、行事の邪魔になってもいけない。いつもびくびくしながら走り回って、でも、すごい感激もしているわけ。「あー、これが何百年と続いてきたんだな。神と人との何ともいえない、誠の誠の気持ちで続いてきたんだな」と思うとき、「カミヤピィトゥツィ ウイヤピテーツィヤリィオリ」「神様どうぞ、上の方々一つになってください」というお祈りの気持ち。これがあってこそと、そういう思いで、私は走ったりしながら同時に深く感激していました。

地元の人との溝

玉城
 東京オリンピック(1964年)の翌年に外人が波照間の調査のために来られているし、私は外人の調査といったらJ・H・カーですか、カー先生が波照間に来られて調査をして、この公民館でいろいろ発掘した出土品を並べて、たくさん梱包にして持っていかれたという話も聞いたものだから。当時外国人はみんなアメリカ人と思っていますから。「外人に協力したら、この前のJ・H・カーみたいに、あちこちひっくり返して調査して、出たものをみんなごそっと持っていく」という話がありました。占領のための調査だということがあったものだから、余り協力的ではなくて、関心もなかったのです。

アウエハント
 だから島の人はちょっとためらいがあったのですね。皆さんがお酒をあがっているときは、「お前たちは波照間の島がどんなに野蛮かを世界にばらすんだろう」と言って絡んでくる人がいたわけ。

玉城
 そういう背景があったから、ずいぶん苦労されたと思うのです。だから、外人の調査の方が来られると、どうせアメリカ人で、占領軍だから、余り協力しようと思う気持ちはなかった。みんなそういう印象があったと思うのです。

方言、屋号を通じて縮まる距離

アウエハント
 それで写真を撮っていても、「やめれー」とか「帰れー」とか言う人もあるわけだ。でもこういう方のお話こそ聞きたいと思って、お酒を持って行ったのです。そうしたら、ある人と酌み交わすうちに和やかになってこられて、「よし、分かった。今度から分からないことがあったら自分のところへ聞きにきなさい」と言われ、お話を聞きに行くと、たくさん知っておられて、いっぱい勉強させてもらったのです。一番絡んでくるような人たちからお聞きすることは非常に貴重でした。そして私たちと前後して宮良高弘さん。

玉城
 宮良高弘さんの元祖が大嶺家で、元祖の島を調べるということで……。当時大嶺の真那(ル・まな)というじいさんがおられて、いろいろ物知りで、宮良高弘さんに積極的に協力しているのです。この先生の一門の「大史姓」の皆さんにもいろいろ協力してもらったりして。だから高弘さんは大変調査がやりやすかったと思います。それに比べたらアウエハントさんは大変な苦労だったと思います。

アウエハント
 方言も大体分かるし、宮良先生は。方言をやらないと余り交流できないと思い主人と私はまず方言の勉強をしました。

玉城
 波照間の方言を勉強されるアウエハントご夫妻の姿勢がやはり民族研究、地元の宗教というか内面的なそれを知るためには、方言で話せるようにならないといけないという努力が、今、アウエハント静子さんは方言で本当に島の人といろいろと対話をされるし、屋号とか、年寄りの名前とか、あだ名までもこうして覚えておられて、こちらの島の人もあだ名が分かって、あだ名で呼べるようになるということは実に親密感を感じるのです、屋号とあだ名、それとワラビナーとか。決して悪い響きのあるのではなくて、こちらでもユーモアのあるあだ名がいろいろあるので、そういうあだ名で呼ばれると本当に親密感を感じるから、そこをアウエハントご夫妻は努力されたはずだから、今みたいに方言を話せるのはそういう姿勢があったからだと思います。方言の他に宗教関係、民族関係で最初に始められた調査はどういうものですか?

アウエハント
 一番初めは、島の一つ一つの村の地図を書いて、名前と屋号を書きました。ここは1番の家、2番の家、3番の家、戸籍名は何で、屋号は何とか。早い時期に大泊勇一さんに屋号を発音してもらって、それを覚えているわけ。だから、行ったときがうれしいわけ。「あっそう。ここの分家がこっちね」って、家族の名前が違っても屋号だと同じだったりすると、「名前は違っても血筋は、実は養子でこっちにいっているんだ」とか、そういうのが分かるから、すぐにみんなの輪の中に入れるのです。そして島に到着したのが旧暦三月三日、早速「浜下り(ル・ハマオリ)」の日で浜辺でみんなと遊び、やがて男も参加できる神行事「泊願い(ル・トゥマニゲー)」、主人も参加できて、神酒も頂いて非常にラッキーでした。

玉城
 特に神行事の調査については、こちらの人でさえもなかなか入りにくい。特に男の人が入りにくいことだったのに、外人でもあられるし、ずいぶん調査に苦労されたのではないかと思います。泊願い(ル・トゥマニゲー)の次はだいたいどんな?

アウエハント
 泊願い(ル・トゥマニゲー)の次は、カンパナとかミワクチェがあって、ほかにもヒブリィ、ヌブリィ、天候願い、雨乞いというのがあって、それから豊年祭の準備、スクマンとか、いわゆる作物の成長を願い前祝いをするような行事とかいろいろ続いていくのです。一体あの「オルルルー」と唱えておられるときに、何を言っておられるのかなあと聞いていました。初めはこっちもやっと来られたという感激で何にも分からないわけ。ただ何かお願いしておられる。やがて少しづつ神詞の順序がわかると、まず「今日は何の日」と前置きがあり、「御神名」のような呼びかけ、その日の願いの主旨等々、少しずつ聞き分け理解分析できるようになりました。

玉城
 この島で、神様に特にお願いしたいのは、やはり雨乞い。農作物は、どうしても雨が降らなければ育たないので。雨乞いのことが、いろいろな形で出てきます。その中で、あちらこちらの拝所で歌われるプーリン・アミジュワの時の、カンシン(ミジィシィカヌパンダー)の雨乞いの歌の中には、その個所のいろいろな歴史的な背景があるところに、その歌詞をつけて歌うそうで、ある面では、波照間の歴史を解明する重要な手がかりになると聞いておるけれども。ところが、これがなかなか解明できないでおるのです。今までの研究は、祈りとか、歌われる歌には入り込めなかったから、そういう面では、アウエハント静子さんの録音、収録されたものは、実に深い祈りの内容を、みんなに紹介する貴重な資料になると思うのです。

波照間文化協会に繋ぐ

アウエハント
 そうして、少しでも、なんか出し始めると比べることができるのです。例えば、他の島だったら、雨乞いはどうやるの? それで、向こうの呼びかけと比べてみる。それが案外、あっちこっちにちりばめられているのです。パズルがバラバラになっているみたいに、これと、パチン、パチンという関係よ。まだまだ私の中に、謎を抱えているのですけれども。この島は、お話袋なの。書かれてないのだから、みんなの頭の中に書いてあるわけ。それを今こそつなぎ止めて残していくのが大事だと思うから、皆さんにお願いしているのです。この写真集は不完全なだけにそのパズルが全部はまっていない面白さもあるのです。いっぱいパズルの駒があるから、しっかり書き込んでください。書き込むのがもったいなかったら、写真をコピーして、そこに書き込んでいってもいい。自分の一冊を作っていって、そして、家の宝にするのもよいし、それから友だちと持ち寄って比べあうのもいい。これこそ波照間文化協会の、大切な遊びではないかと思うのです。先生、どうですか?

玉城
 そうですね、波照間文化協会ができたのも、アウエハントさんの本ができて、それを、中鉢良護さんが翻訳した『試訳本』ができたものですから、中鉢さんから内部資料として、それを読み合わせしながら、「訳の不十分なところとかいろいろ指摘してもらえるといい」、そういう要望もあって、われわれも、また、島のことについて、特に宗教的な、われわれの手が届かない、入り込めないところがアウエハントさんの本の中にあるものですから、この際それを学習する組織を作って、そこの中で勉強をしようとしてできたのが波照間文化協会の発端です。

アウエハント
 協会、すごかったですね。ちゃんと、その回ごとに読書会みたいなのがあって、研究発表があって。夫の原書が出たのは85年でした。そして、英語版だったから、それを全く自発的に、中鉢良護先生という方が、こつこつと訳を仕上げられて、93年にできあがっています。

玉城
 最初は何もかも新発見の連続で、みんな感激しながら。その序論の島の自然、そして村・集落、そして歴史、そこまでは毎月の例会でなんとか学習することができた。ところが、『試訳本』が限られているものだから、例会の度にコピーして、来られる人みんなに配らんといかないという困難もあったけれども2年間は続きました。それを、3年目に入ったころで町や出身校の50周年、30周年など、いろいろな記念行事が重なったものだから。またちょうど第1部が終わったところで、2部になってくると宗教関係になるものだから。宗教の分野に入ってくると、みんなレポーターを引き受ける自信がなく、分からないことがたくさんありすぎて。だから、ここで毎月ある例会を、ひと休みにしようということになって、中断してしまって再開できずにおります。

地元の人が行動を起こしてこそ

アウエハント
 まあ、それは、それでよかったのです。やはり宗教関係、神行事関係というで。中鉢先生が、大変苦労されたのは、英語から、もう一度日本語に直されたから。もともと私が、波照間の言葉をテープ起こしして、それを、日本語を頭に入れながら英語に訳したのです。それを主人が、オランダ語も併せ考えながら、私は、コメントは、オランダ語と英語で書き……、それで本になったというプロセス。神詞や神謡のテキストは波照間語の古文で、しかも人から神に対する最高の敬語です。固有名詞や不明な言葉も多々あります。そのような作業で主人と私がなんとか記した英語の文面を日本語に訳された中鉢先生のご努力には頭が下がります。でも先生をここまで支え続けたのは、やはり祈りの言葉に込められた「本物」の力でしょう。ともかくまだ不明な点が多くて自信がありません。だから、波照間文化協会は、本当にこれからです。今いらっしゃる方々だけでなく、その文化協会に入っていない人、お年寄りたちにたくさん聞いていただいて肉付けしてもらうのと、訂正してもらうのと、そして、新しく、あこからインスピレーションを受けて、ご自分の研究とか、調査とか、ご自分の自分史、自分の家の歴史もできていいと思うのです。そういうために、あの写真集も、理論編も使っていただきたいと思います。本当に、まだまだ謎がある。だけど主人は、できるだけ間違いを後世に残したくなかったのです。だから、今の段階では、まだ訳の出版のオーケーを出せないと。だんだん自分の方も、老眼的な目の着手というのが進んで、なかなか読みにくくなっていたし、そういうこともあって、しかもカタカナ表記で、波照間の言葉をどうやったら、できるだだけ正確に伝えられるのかと模索しながら、一歩、一歩、物すごく大きいハードルを解決してきたのです。でも波照間の地元の人が、波照間の血を受けた人が、ここに住んでいる人がやられてこそ、本物の解決策が見つけられると思うし、これからですよ。この本を、本当に踏み台にして、たたき台にしていただくものだと思うのです。これこそ、皆さまにお願いしたいと。それと、こういうことを取り扱う場合は、自分の精神的態度、これが大事だと思います。貴重な文化遺産を立派に後世に伝えてください。

この記事をシェアする