ゼブラと書かれた箱を載せたオートバイがトレードマーク。今日もそのバイクで「ゼブラのおじさん」こと村中書店の村中用三さんは市内中を走り回っている。76歳の現在も、箱いっぱいに積んだ雑誌を各家庭に配達しているのだ。
懐かしい趣きのある店内を見回し、訪れた学生の頃を思い出しながら、入荷したての真新しい週刊誌をせっせとチェックする手を煩わせつつ話を伺った。
村中書店が開店したのは昭和36年のこと。当時、用三さんは会社勤めだったため、奥さんの康さんが一人で店を切り盛りしていた。「昔は保育所がなかったでしょう。子どもをみながら家でできる仕事をと思って始めたよ」と傍らの康さん。「あの頃のことは家内の方が知ってるさ。初代社長だから」と用三さんが笑う。その後、自宅だった現在の場所に店を移転し、店の繁盛に合わせて、用三さんも会社を退社して一緒に店を運営するようになる。
「そのうち周囲の声もあって、文具だけでなく、週刊誌を扱おうと那覇に行って契約してきたさ。サンデー・マガジンが100冊入ったら2時間で売り切れるほどだったよ。子どもたちから『まだ入らん?』と電話もきたし」。遠くは与那国島まで雑誌を送っていたという。
また、かつて雑誌の入荷が島で一番早いと評判だった理由には、「私が海運会社に働いていたので、船が入る情報もすぐ分かったから、荷車屋にすぐ運ばせられたから」という利点があったらしい。
雑誌だけでなく、文房具もよく売れたという。新学期の頃は、ノートを買う子どもたちがズラーッと外まで並んだ。
なにしろ忙しくて、店を開けていれば夜の12時までもお客さんは入ってきた。店を閉めた後、ようやくご飯を食べるということも度々。実は、繁盛の陰には、夫婦の二人三脚だけではなく、もう一人強力な助っ人がいたのだ。「うちで立ち読みする子たちはみんなばぁちゃんに怒られていたなぁ。ばぁちゃんがいた頃は日曜日も店を開けられた」と用三さん。「そう、母がいたから、新川まで自転車で配達に行けたよ」と康さんも相づちを打つ。「本当に家族経営だったさ」と懐かしむ。しかし、ばぁちゃんがいなくなった代わりに、現在は息子さんが一緒に店を切り盛りするようになった。
商店街の筋道を、今日もゼブラのオートバイが走り抜けていく。
八重山人の肖像
写真:今村 光男 文:石盛 こずえ
第一回の星美里(現:夏川りみ)さんをはじめとする105名の「ヤイマピトゥ」を紹介。さまざまな分野で活躍する“八重山人”の考え方や生き方を通して“八重山”の姿を見ることができる。