内原 スエ

「私の人生は(大きい鍋を扱う)生りだったかねと思うさ」

 
「来夏世」で初めてそばを食べたあの日はとても暑かったのに、店内は不思議と風が吹き抜けて、とても心地良かったのをよく覚えている。そばの味もさながら、厨房にチラリと見えた伝説のおばぁの後ろ姿も印象深かった。
 
 その伝説の人こと内原スエさんが、八重山そば屋を始めたのは5年前の80歳のとき。「次男が『そば屋をやりたいけど一緒にやってほしい』といってきたさ。私は家族がおいしいといって食べてくれた味でしかやりきらんよ、と。お客さんがおいしいといってくれて良かった」。
 
 当初、次男嫁の藤緒さんにはダシの取り方をはじめ一から教え込んだ。
 
 スエさんが内原家に嫁いできたのは60年前。ご主人はいまだ語り継がれるほど名物市長だった故・内原英郎さん(9?12代)である。家族10人の大所帯で、大きな鍋で毎日三度の食事を炊いた。「だから店で使っている鍋はみんな家から。私の人生はそういう生りだったかねと思うさ」と笑う。
 

 内原家では土曜日の昼食はそばと決まっていた。孫が学校から電話してきては「友だち何人か連れてきていい?」と聞くことも多かった。今もその頃の子らが「ばぁちゃんにいっぱい食べさせてもらったなぁ」と訪ねてくる。
 
 ところで内原元市長はそばにはうるさかったとか?「あんじ(そう)、あの人はそばには凝ってたから…。でも鍛えてもらって今があるさね。何でもおいしいといって食べてはくれたよ。料理も得意で、盆などの行事の鉢盛りも上手だったよ。感覚が素晴らしかった」。
 
 また、ご主人がこだわったことに、「お祝い事と法事ははっきり区別すること」というのがあった。使用する道具も料理の内容も本来は異なる。「今は何でも簡単になっているけど、八重山の伝統文化をなくしてはいけないと、講習会で精進料理を教えることもありますよ」。
 
 行事の際には何十人、何百人もの客にお膳を出してきた。「食べ物屋に働いたこともないし」とスエさんは謙遜するが、今日までたくさんの舌と腹を満足させてきたのには違いない。最近ではあまりの評判ぶりに客も増えたが、決して昨今のグルメ流行りに乗せて紹介するような店ではない。実際、隣りの人が鍋を持って買いにくるような、あくまでも近所の誠実なそば屋であり、人に食べさせるのが大好きなおばぁなのである。
 

八重山人の肖像
写真:今村 光男 文:石盛 こずえ
第一回の星美里(現:夏川りみ)さんをはじめとする105名の「ヤイマピトゥ」を紹介。さまざまな分野で活躍する“八重山人”の考え方や生き方を通して“八重山”の姿を見ることができる。

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