上里 直英

「甲子園というのは、雲の上、またさらに上にあるものだったからね」

 
 ちょうど、八重山商工高校野球部が、春夏、甲子園連続出場の切符を手に入れた明くる日であった。私は興奮冷めやらぬ心持ちで、上里直英さんをお訪ねした。今、まさに八重山中が、甲子園への想いをたぎらせている真っ只中とあって、八重山野球連盟の会長との対面に、私はひときわ特別な心境で赴いた。
 
 「うらやましい! 私たちのころは、今のように少年野球が盛んじゃなかった。もちろん目指してはいるけど、甲子園というのは、雲の上の、またさらに上にあるものだったからね」。話題は、上里さんが『甲子園』を夢見た少年時代へとさかのぼる。農林高校で、野球にひたすらに打ち込んだ三年間、また高校卒業後、現在に至るまで、長年つとめてきた審判員。野球のルールに、あまり明るくない私の素人質問に「プレーするのとはまた違って、審判は奥の深いものですよ」と、春・選抜の商工球児の好プレーをひもときながら、立ち上がり、実際に体を動かしては、とても丁寧に教えてくださった。
 
 さて、そのような審判員の育成や派遣などをも含む、野球の底辺拡大と技術の向上につとめてきた八重山野球連盟は、文字通り、八重山野球の全ての大会を主催、後援し、昭和二三年の設立以来、八重山野球界発展の源となってきた。
 

 「戦後の混沌とした社会情勢の中で、島を元気づけよう! という先輩方の想いが結集したんですね」。当初、わずか五~六チームだった職域大会も、今では約九〇チーム(社会人チーム全体で)、少年(学童)、中学、高校のチームを合わせると、約一二〇チームを数えるという。年間の試合数は合わせて約六〇〇試合。「石垣は、年中野球ができるでしょ。土日は、ほとんど試合が入ってますよ!」と上里さん。高校野球はテレビに釘付けでそれこそ熱中する私だが、想像以上の、八重山人の野球熱に、私は仰天した。それと同時に、五八年前、信念を抱き、連盟の設立に力をそそがれた、島の先輩方のご尽力に、ただただ胸が熱くなった。今では、八重山の野球人口、約二千名。野球を愛するその想いは、時代をこえ、しっかりと引き継がれている。
 
 そして九代目会長の上里さんは、平成十四年からは、八重山支部初の沖縄県野球連盟副会長にも就任。
 
 「野球が、好きなんですよね!」。
 
 はにかむように、でも力強く話された言葉が、何より心に残っている。

(この回は 文:新城音絵)
 

八重山人の肖像
写真:今村 光男 文:石盛 こずえ
第一回の星美里(現:夏川りみ)さんをはじめとする105名の「ヤイマピトゥ」を紹介。さまざまな分野で活躍する“八重山人”の考え方や生き方を通して“八重山”の姿を見ることができる。

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