オヤケアカハチ慰霊祭

 4月18日、午前10時から石垣市大浜の崎原公園内のオヤケアカハチ慰霊碑の前で慰霊祭がおこなわれた。大浜の住民をはじめ大浜小学校6年生59名が参加して、オヤケアカハチの遺徳を偲んで、講話や歌を歌って、遙か昔に生きた故郷の偉人に思いをはせていた。

 神司による祈願のあと、冒頭、大浜公民館長の大濱俊士氏が挨拶に立ち、「オヤケアカハチは村人のために、過酷な納税に反旗をあげて戦った村の英雄として伝わっています」と、オヤケアカハチが村のために権力に向かって立ち向かったことを高く評価して、村のシンボルとして語り継がれていることを述べていた。

 大浜老人クラブ長寿会から祝辞が有り、毎年開催されるオヤケアカハチの慰霊祭がオヤケアカハチの遺徳を再確認する場となっていることを、感慨深く思いますと、慰霊祭の意義を高く評価していた。

 この後、郷土史家の大田静男氏がオヤケアカハチの講話を実施していた。長く石垣市教育委員会で活躍し退職した大田氏は、八重山の歴史書に詳しく、八重山の歴史や芸能、文化に関連する書籍を書いて、八重山全般に詳しい大田氏のオヤケアカハチ観が披露された。

 オヤケアカハチの時代には、大浜村に鉄が伝わった時代と重なり、大きな変革が起こっていた時代でもあったが、当時、造船のために宮古島からの樹木の伐採が西表島で盛んに行われて、その持ち出しに抵抗して、オヤケアカハチが攻め入った話が残されている話が披露。

大田氏は、この宮古島と石垣島とのトラブルに介入して、軍備を派遣して、先島に乗り込んできたのがオヤケアカハチの乱の真意でないかと、様々な記録や史実をつきあわせて、推察。

オヤケアカハチ自身は、大きな軍勢を持っていたわけで無く、派遣された首里王府に宮古軍がいっしょになって攻め込み、武器のないオヤケアカハチは簡単に追われて、底原で殺された事件であったと述べていた。

一方、大田氏は残された記録はほとんどが首里側の視点で描かれており、負けたオヤケアカハチや大浜村からの視点は記録がないことを考えれば、勝った側からの推測でしかないことを指摘。

小学生には、書かれたことを鵜呑みにすることなく、新たな疑問をもつ中で、こういう時はどうだったのだろうと、オヤケアカハチへ考察を深めてほしいと述べていた。

 大田氏は、英雄視する大浜村へ失礼とならないかを、気にしながらの遠慮がちの講話だったが、戦に勝った側の記録しかないものを鵜呑みにしないことを指摘して、考察により新たなことがわかる可能性も含みに持たせて、オヤケアカハチの側からの視点の大切さも示していた。

 このあと、アカハチ行進曲が参加者全員で斉唱され、オヤケアカハチが村の偉人であることを再確認する慰霊祭が幕となっていた。


 
 (流杉一行)
 

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