登野城結願祭

12年に一度、寅年に行われる字登野城の結願祭。今年は弥勒面の新調、弥勒の役の交代があった。そして、12年に一度しか行われない結願祭は継承が課題。そこで今年は文化庁の地域文化伝承事業で、準備の段階からビデオで記録した。前回までつかっていた衣装の見直しもあった。明治期に描かれた登野城村の結願祭のカラーの絵図が見つかり、それにのっとり、鉢巻も前回までの白から赤へ戻した。当日は600名の字民が参加。パンフレットには全員の名前が刻まれた。沿道や天川御嶽には、12年ぶりの祭を見ようとたくさんの人が集まった。
 
 

登野城の結願祭とは

 結願祭は、五穀豊穣、子孫繁栄、無病息災など諸々の祈願を総まとめした願解きの儀礼であり、八重山では、川平や小浜などの各地で毎年または何年かごとに行われる祭事である。
 12年に一度の登野城の結願祭は、過去には寅年以外の年にも行われていたが、近年は寅年に行われている。しかし、なぜ寅年に開催されるのか、現段階ではわかっていない。登野城の結願祭は2日間にわたって行われ、日程は神司によって決められる。今年は1日目は夜籠りの願い、2日目は旗頭や弥勒行列、太鼓、婦人部の胡蝶の舞、木遣り、棒術や獅子など、町内を練り歩く「道すない」の後、天川御嶽で奉納芸能、祝宴が行われる。今年は約600名の字民が参加。パンフレットには全員の名前が刻まれた。
 
 

県内で最初に弥勒面が伝わった登野城

新調された弥勒の面  八重山で最初に弥勒神が現れるようになったのは登野城の豊年祭だといわれている。1791年、首里大役をしていた大浜用倫氏が、公務で八重山から首里に向う海路で嵐に遭い、安南(ベトナム)に漂着した際に、当地の豊年祭で祀られていた弥勒に感動を覚え、面と衣装を譲り受けたという。その後首里に辿り着いたが、すぐに八重山に戻ることができなかったため、随行員であった新城筑登之氏に面と衣装、彼の作「弥勒節」を託したという。新城氏はアラスクヤー(新城家)の祖先で、ゆえにミルク面は今までアラスクヤーで保管され、ミルク面をかぶる者も代々その関係者に限られる。

新城弘志さん  沖縄県工芸士である新城弘志さん(76歳)は、20代の頃からアンガマ面や弥勒面、獅子頭など民芸品彫刻などを手掛けていて、登野城の弥勒面の修復作業に携わっている。現在は息子さんがこの貴重な技術を引き継ぎ、修行中だという。
「登野城の弥勒面は、219年前に安南から持ち込まれて以来、新城家(アラスクヤー)で大切に保管されてきました。修復を重ね、前回の結願祭まで使われてきましたが、4年前に沖縄県立博物館での展示用に登野城の弥勒面を複製することになり、それをきっかけに、今年の結願祭用にも複製されることになりました」。
 
 

弥勒の役

新城貞美さん  新城正雄さん(82歳)は「36年前に初めて私が弥勒の役を受け継いだ時には、弥勒の着物と下駄を新調しました。上等な生地を使い、大きな機織機を持っている人を探して織ってもらいました。また、近所に住む知人から木材を貰い、木工職人に依頼して、弥勒用の高い底の下駄を作ってもらいました」と話す。今年、4回目の弥勒役を務める予定だったが、甥の貞美さんに引継ぐことにしたという。これまで、踊りを忘れないように、厚紙で作った扇子を使って思い立ったら練習を繰り返していたという。
 今年から弥勒の役を受け継ぐこととなった新城貞美さん(56歳)にお話を聞いた。
「弥勒の役は新城家の子孫が代々務め、今年から私が受け継ぐことになりました。今回の結願祭は、弥勒面も新調され、初めて弥勒の面をかぶることに重みと責任を感じています。歴史の上で分らないことも多く、資料を収集し、まだまだ勉強中ですが、新城家が受け継いできたこの大役を、12年に一度の結願祭で精一杯務めたいと思っています」。
 
 

神にささげるお供え物

7日朝4時から仕上げられたスー  字会からのスー(供え物)は祭事係りの担当。結願祭4日前の10月3日、字副会長祭事担当の新城廣一さんと祭事係りの8名のみなさんは供え物の材料の採取に。朝9時に集合し、アンパルや名蔵の山へでかけ、海のもの山のものをいただきに出かけた。戻ってきてからはさっそく選別、下処理をはじめる。神様に供えるものであるため、きれいな物のみを使用する。材料は次の8種類。
*マンジュマイ(パパイヤ) *マーミナ(モヤシ) *長命草 *ハンソウ(ヤブカンゾウ) *インミズナ(ミルスベリビュ) *イイス(ツノマタ) *イシャヌメー(イボクサ) *ナー(ナッパ)
 スーは全部で9種類で、材料は以下の8種類。盆にその8つを乗せ、そして、すべてを合わせた「アイス」を中央に置く。なお、豊年祭など、天川御嶽に関する行事は同じものをつくる。6月に行われた天川御嶽の落慶式でもこれらが供えられた。


インミズナをとるみなさん

とってきたものを下処理

本格的にスー作り開始

5回目の参加の上地節さん(85歳)

 
 

木遣り(キヤリ)

 唄と三線、踊りを合わせて総勢70名ほどで行う木遣り。収獲した米を俵にし、米俵や米挽きに使う道具を積んだ大きな荷台を60名ほどで歌いながら引き、天川御嶽まで運ぶ。種物はカゴに入れ、神酒と一緒に御嶽に奉納する。木遣りは、稲の収獲後、米を挽く精米の様子を表現している。前回までは、踊り手は浴衣を着けていたが、今年からはムイチャーを着用し、八重山の昔ゆかしき姿を再現することになった。
 戦後からずっと参加している比屋根二郎さん(88歳)は、今回が参加6回目の結願祭だという。準備から当日までの流れを知る貴重な存在である。「結願祭の内容を知る人が減っていくのではないかと心配していたが、今年は新しいメンバーも参加し、祭が受け継がれていくことに期待をよせている」と話す。

小波本英行(えいこう)さん(76歳)は木遣りで歌われる唄の指導者であり、二郎さんと共に木遣りに使う小道具の準備をする。唄の指導はもちろん、自然な流れで囃子をいれていく。英行さんとともに唄の指導に携わるのは、八重山古典音楽大濱用能流保存会の会長を務める知念清吉さん(77歳)。清吉さんは、今年初めて木遣りの地謡を担当する。唄は3曲で、初めに歌われる「キヤリ節」は、沖縄本島の木遣り歌「国頭サバクイ」が元になっていて、ちらしの「ちばり節」と共に登野城結願の歌詞で歌われる。最後に歌うのは「稲しり節」。祭り当日の地謡には、知念清吉研究所のお弟子さんたちも参加した。
 
 

新調した弥勒面 入魂式

 219年前に安南から持ち込まれて以来、新城家(アラスクヤー)で大切に保管され、結願祭だけにつかわれてきた登野城の弥勒面。10月6日には、今年新調された弥勒面の入魂式がアラスクヤーで行われた。新しい面が制作者の新城弘志さんから比屋根重雄字会長へ手渡され、関係者や研究者が集まる中、新旧ふたつの面が並べられ、神司が祈りをささげた。これまでのものに替えて新しく制作した面をつかうようにしてもよろしいですか、と神司がウクジ(御籤)で判じをしたら一発で神様のお許しが出たという。

 
 

夜籠り(ユーグミリ)の願い

 神司、氏子、古老、字会役員らによる夜籠(ユーグミ)りの願いが10月6日夕刻から行われた。見学者も多く訪れ、結願祭の幕開けを見守った。

 
 

そして結願祭当日・・・

 朝8時すぎ、アラスクヤーで神司たちによる朝願いが始まった。そのあとは天川御嶽に移動し、同様に朝願いがされた。
朝7時すぎのアラスクヤー。ついに今日がはじまる。

道すないスタート

 旗頭を先頭に、弥勒行列、棒術、獅子舞など各団体が後に続き、結願祭でしか見られない「道すない」が行われた。砂川冷凍前→4号線を進み、石垣ケーブルテレビ前→南に下り、弥勒一行は大濱用倫宅に立ち寄る→石垣サービスステーション前→東に曲がり天川御嶽を目指す。

 
 

天川御嶽に到着


松明を持った字副会長を先頭に、天川御嶽へ入場する弥勒行列

二中郷土芸能部による、まみどーまの奉納

東二組ハーリー婦人部による豊年でーびる

八島小学校4年生は元気いっぱいのエイサーを披露


県内でも登野城のみに伝承され、市の無形文化財に指定されている大胴・小胴(ウードゥ・クードゥ)

大将棒を務めるのは比屋根祐さん(左)と山田義博さん
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