宮鳥の杜は聴衆で鈴なり 第一回とばらーま大会
第一回とばらーま大会は、終戦翌々年の昭和二十二年(一九四七)九月三十日、旧歴の八月十六夜、宮鳥御嶽隣りの石垣会館で開催された。主催は海南時報社(浦添為貴社長)で、私は記者だった。
詰めかけた老若男女の群れは、会場内をはじめ、会館前の広場や道路、御嶽の境内を埋め尽くした。果ては御嶽の榕樹に攀じ登り鈴なりになるという状況で、この島はじまって以来といわれるほどだった。
応募した出場申込者は四ケ字はもとより大浜、平得、宮良、白保、川平をはじめ各離島の島々からも、この機会を待っていたかのように殺到した。主催者側は応募者の熱情と期待に応えたかったが、時間の制約もあり止むなく出場者を申し込み順三十名に限定した。
会場設営にも苦労した。とばらーまは元来野外でうたいあう歌だから雰囲気を盛り上げようと、芭蕉やパパイヤを幹ごと運びこんで立てたり、榕樹の小枝にススキや蔦を絡ませ野良道をしつらえるなど、野趣に富む舞台装置に気を配った。作業を手伝って貰ったのは、故人の山里長一、宮良信興氏ら友人達だった。
大会は、とばらーま歌い手の先輩、崎山用能、大浜津呂、仲本マサ子(宮良長包氏の妹・幼名ヌベマ・蓄音機アッパー)三氏がレコードに吹き込んだ、とばらーまを鑑賞した後、競演に入った。
聴衆は、ときに高く、ときに低く旋律の起伏を繰り返しながら、各字独特の節回しで唄う出場者のとばらーまに、拍手や指笛で応え熱狂した。八重山の心を唄った情歌とばらーまが、庶民の共感を得て見事に開花した競演大会だったというべきであろう。
この日の人気投票の開票は翌日、浦添社長宅で、石垣字会長と石垣市消防団長立ち会いで開票され、その結果、一位に大浜安伴(石垣)二位・後原イシキ(宮良)三位・石垣信知(登野城)と海南時報は報じた。二回目からは、審査員制による審査となった。
歌詞募集は大会2回目から
とばらーま新歌詞の募集は、第二回大会(昭和二十三年)からであった。
新しい時代にふさわしい感覚の歌をという目的で企画され、応募歌詞は純粋な八重山言葉を主眼にし、琉歌の焼き直しや、昔から歌われたきた歌詞の改ざんはとらない、などの審査基準を設定した。
入賞作品の上位三首は次の歌詞だった。
■一等 石垣武子 作詞(石垣)
かいぬ底(スク)から 花ずみ手さじば
取り出しかざばし かぬしゃば思い出し
■二等 石垣孫当(石垣) 世界(シケ)や ぐるぐる変り行く共ん
とばらま しょんかねや 幾代までん
■三等 石垣武子(石垣)
びらま情ぬ 黄金(クンガニ)指んがに
や 差(サス)ば差す程 光りど優(マサ)る
以後の募集で入選したなかから二、三拾うと
■潮平寛保(石垣)
いくさ世ばふけーおうり ばがけえら
とばるましょんかねゆ いざり時んありら
■竹原孫恭(登野城)
いくさスクめーるンザどう ばなウラみ
行くだバーファ ナマまでん戻らぬ
■国吉長伸(石垣) 肝ぬ思いや 胸からうるさるぬ トバラ
マ歌んざん いづとうし知らさるば
創始者浦添社長の動機 海南時報と当時の世相
ところで、とばらーま大会創設前後の世相はどうであったか、また同大会がどのようにして誕生したのか、当時の海南時報社と、同社社長であり、大会創始者である浦添為貴の動機と経緯を記さなければならない。
終戦で避難地から帰った人々は、これで戦争は終わったのだと安堵した反面、世の中がどう変わっていくのか不安だった。かつての島の豊かな暮らしは、遠い日の思い出に過ぎなかった。
隔離も同然の避難生活で田畑は荒れ放題、農耕用の牛馬は戦中に軍部隊に取り上げられたまま返ってない。そのうえ避難地から背負ってきたのはマラリアで、発病者は各戸に増え、枕を並べて家族が次々死んでいく悲惨な状況で、生産どころではなかった。
食糧の蓄えもなかった。人々は生きんが為の、喰わんが為のたたかいに追い込まれ、荒れた畑に生え残りの小指ほどの芋(ムイアッコン)を競いあさる状態で、地獄とはこういうものかと思わせるほどだった。芋泥棒が跋扈し、自警団が結成されて治安維持にあたっていた。旧軍隊が残置したメチールアルコールを飲んで失明したり落命した人もいた。
このような戦後の流れを受けながら、海南時報は昭和二十一年一月二十三日再刊された。活字は浦添社長が防空濠に埋めてあったものを掘り返して使用していた。
浦添社長はお酒が好きだった。浦添家が醸造酒屋だったせいもあって、編集会議は毎晩飲みながらおこなわれた。政治、経済、社会、学芸と多岐にわたり、話題が尽きることなく深夜まで延々と続いた。やがて障子に映った夜明けの陽光を「今夜の月はいやに照るではないか」と言いながら酌み交わしている時もままあった。”暁部隊“と称されたのも当然の酒豪揃いだった。
ある夜、浦添はいつものとおり独酌していたが、酔うほどに板の間で横になり、まどろんでいた。すると、東の道路を唄いながら行く男の歌声が、夢うつつのように聞えてきた。
歌声は深夜の空気を震わせ、絞るように高く、また低く、そして物悲しく、感情の湧くまま訴えているような、島の情歌とばらーまだった。確か、歌詞は昔とばらーま節のように思えた。
心を揺すぶられ感動した浦添は、歌っているのが誰なのか知りたくて歌を追い、外に出た。しかし歌の主は、歌声とともに静寂の闇の中に吸い込まれたように消え失せていた。北へ延びる道路がうっすらと、幻のように浮かんで見えるだけだった。
浦添はこの男の歌を、いま一度聴きたいと思った。そしてこの男を探し出すにはどうすればいいかを考えた。(そうだ、島にはこの男のように隠れた素晴らしい歌い手がまだいる筈だ。よし、とばらーまのコンクールをしよう)浦添の胸の中はこのことで満ちていたという。ラジオのノド自慢番組を聞く機会が少なかった頃だけに、一層拍車をかけられたようだった。
翌日、浦添は大会の開催要項を書いていた。そして「とばらーま大会を催すのは、戦後のすさんだ民心を癒し、八重山の心を取り戻す情操陶冶のためでもある」と言い、昨夜半にとばらーまを聴いたいきさつを語り、とばらーま大会を催す意図と動機を、はじめて明らかにした。
こうして『とばらーま大会』は誕生した。
とばらーま再発掘 評価と語源・由来・変遷
第一回大会開催に呼応して、詩人・伊波南哲氏が『とばらま歌』『トバラマ雑感』を、また教師で詩人の喜友名英文氏が『トバラーマの文学的特質』など、解説や評論を次々海南時報に発表、とばらーま大会を盛り上げた。
これらの解説などによると、日本民芸協会の柳宗悦氏は、とばらーまを「世界一の情歌」と絶賛「死ぬ時はトバルマで送られたい」と言ったという。また、作家の賀川豊彦氏は、「とばらーまは世界的な名曲である」と称賛していたようである。
このような賛辞の反面、「八重山からトバラマを無くさない限り、偉大な人物は生まれない」とする、とばらーま亡国論も一部にはあった。
いち早く反応したのが伊波南哲氏。「亡国論者たちは、芸術のもつ逆説を理解していない。はらわたを断ち切るようなエレジー(悲歌)が民族の歴史であり、魂が振るい立つことを忘れている。魂の琴線をかきたてなければ、情熱の火は燃えない。詩神は生きている。人間の感情は理屈ではない」と詩魂を叩きつけて反論した。
因みに、とばらーまをめぐる諸説を簡単に列挙すると
〈とばらーまの語源〉
まず筆頭に喜舎場永氏の「愛する貴方」という意味の『殿原』説。それを受け「女が男に殿原と呼びかけていたのが最初で、トノバラの『ノ』が抜けて『トバラ』となり「マ」は愛称語として『トバルマ』となった。〈カヌシャーマ〉はトバルマの対象語で女への愛称である」と解説しているのが喜舎場説を継承した伊波南哲説。
これらの説に対し、『殿原』は身分の高いひとびと男たちに対する称で『原』は『輩』の意で複数を表す接尾語(辞)である。(林大監修・言泉)として、「舞人は、とのばらの君たち…云々」(宇津保物語・春日詣の一節)は『高貴な方々の殿方』の意とか、「是を見給え、東国の殿原…云々」(平家物語)を引用、『武士たちを敬って言う語』と指摘する説もあった。
次に、与那国方言説をとったのは宮良泰平氏。与那国方言『とぅばるん』(動詞)は、「会う、出会う」の意で、転じて『男と女が媾曳(あいびき)する」にも使われており、『とぅばるん』の連体形に愛称接尾語『ま』を添え転化したのが、とばらーまである、というのが与那国方言説。
外間守善氏も「とばらーまの語源は、この与那国方言で解ける」という見解である。なお、『とうばりゃー』は(訪れる人、会う人)の意となると森田孫栄氏も解いている。
奈良時代、上代の東国で『歌垣』(常陸風土記には『宇太我岐』)という語があった。
歌垣とは、古代、男女が山や市(いち)などに集まって飲食や舞踊をしたり、掛け合いで歌を唄ったりして、性的開放を行ったもの。元来農耕予祝儀礼の一環で、求婚の場の一つでもあった。(言泉)
歌垣は、心情を歌詞や旋律で唄いあげ、それに対し応答の歌を唄い返す、とばらーまにもあい通ずるものがある。
〈とばらーまの嚆矢・由来〉
ところで、とばらーまはいつ頃から作られ、歌われてきたのか。
元祖は登野城の『湧川』という人(のち黒島大屋子に昇進)で、今から二百年余前の寛政の頃、年貢公納で首里への船路の途次台風に合い、宮古の八重干瀬で座礁し救助された。船の修理中、島の乙女と恋に陥った末、離別に悲しみ即興的に作詞作曲歌したという。それを同船(船頭・平久保の久良筑登之)の船子(鳩間の人・名前不詳)が帰って伝えたという。(喜舎場永著『八重山島民謡誌』)しかしこの湧川の生年月日、年齢や上覇の年代など不明である。この歌は『むかしとばらーま節』に、湧川と乙女の掛け合いとして唄い残されているが、歌の末尾の囃子を、宮古では「ワクンガーヌ ウヤガマシ」と宮古方言で歌われ、八重山では「ワクガーヌ ウヤガナシ」と歌われているようだ。
〈とばらーまの文学的特質〉
とばらーまは、八重山歌謡の一形態の叙情歌謡で、同じ叙情歌謡でも琉歌形式(八・八八・六)を基本とするスンカニーとは違って不定律の四句体形式。アヨー、ジラバ、ユンタの集団歌唱に対し、独唱あるいは二人掛け合い。本来は無伴奏。内容は、恋、親子の情愛、人生の喜怒哀楽を即効的に謡ったものが多い、と波照間永吉氏は解説している。(沖縄タイムス大百科事典)
なお、石垣市発行『とぅばらーま歌集』には、とばらーまの種類を、昔とばらーま、ばっかい(滑稽)とばらーま、戦後のとばらーま、に分類している。
喜友名英文氏は、とばらーまの特質として次の四点をあげている。
(1)檄越(情)性=「胸(ンニ)ぬ くりしや ぴらきしさるば…」のように激しい心のうずきを端的直情的に表白している。恩納なべの「森ん押しぬきて くがたなさめ…」の琉歌に比べれば、とばらーまは激情の中にも、八重山人らしい柔軟性ものの哀れ的な気品を感じさせる。
(2)諦観性=「うらとばんとぬ 通うだるいばみち…」や「いくさ世ばふけーおうり ばがけーら」のように追憶回想のなかで人生の変転無情(恋も死も)をあるがままに肯定する八重山人の心の所産の表れ。
(3)比喩性=「月は昔と変わらぬ月だが、変わっていくのは人の心だ」とする歌は、月にたとえて人心を比喩している。
(4)情緒性=イラー ンゾーシーヌ カヌシトバルマヨーの節回しが上手、下手の境目。余興を残す情節である。
また、西原洋子(沖縄国際大学文学部非常勤講師・石垣市出身)はその著『八重山の心 トゥバラーマと人生』で、自然と人生、青春と愛、生活苦、天災と戦争、老い死、芸術と人生の代表的原歌四十九編を評釈、イギリスの沖縄文学・芸能研究家ロビン・トンプソン氏が英訳、海外の人々にも紹介している。
結びに代えて
とばらーま大会を終えると、ミーニシが吹き、南国の沖縄も爽やかな秋を迎える。大会を終えると、運営に当っていた人々を慰労する宴を催し、反省し締めくくるのが恒例であった。
第一回大会後も、浦添社長宅でお酒を酌み交わしながら懇談した。宴席にはとばらーまの余韻が漂い、座敷を埋めた面々は、みんな興奮していた。
出席者のひとり伊波南哲氏が突然言った。
「とばらーまは、浦添社長の奥さんの出身地北海道の哀愁を帯びた、江差追分と似通っている。江差追分を奥さんに歌って貰えないだろうか」と。
『江差追分』は鰊漁場の女性と本州から出稼ぎにきたヤン衆の別離を歌ったものである。
浦添社長とキク夫人は、ただ黙って微笑んでいたが、とばらーま大会を思いついたとき浦添社長の胸中を、ふと、江差追分の旋律がかすめていたのだろうか。今は知る由もない。
やがて宴は、終わりに各人が交互に、とばらーまを歌うことになった。
当時、記者だった私も所望され、とうとう歌わざるをえなかった。酔いにまかせて古典とばらーま節をアレンジした「なかどう道から 七けーら通うけ 仲筋かぬしゃま そうだんぬならぬ」を自分としては音吐朗々と歌ったつもりだった。人様の前で初めて唄ったとばらーまであった。唄い終わるとすかさず浦添社長はじめ、周囲から声が掛かった。
「棒を呑むような歌い方だ。ウタタノールがない」と。やはり、とばらーまは歌心が欠けていては、聴く人々の心を打つことはできないものだ。身をもって実感した一夜だった。
かくて海南時報が創めたとばらーま大会が八重山の人々の心を捉え、現在もなお継続されて石垣市が開催していることに、深い感慨を覚えるものである。
南風原英育(はいばらえいいく)
大正13年(1924)石垣市登野城生まれ。昭和19年沖縄師範卒。同21年海南時報記者。昭和34年沖縄タイムス八重山支局長。同社関西・東京両支社編集部長、本社広告局長、東京支社長を経て取締役専務。沖縄タイムス・サービスセンター代表取締役社長。平成2年定年退職。昭和63年(1988)著書『南の島の新聞人』(おきなわ文庫・ひるぎ社)刊行。現在、東京・八重山文化研究会長。
[特集]とぅばらーま大会創設のころ「情報やいま 2002年9月号」