ソーロン アンガマ 後生の精霊

三線、笛、太鼓で奏でる  軽快なアンガマ一行の  道行きの音楽が響き出すのは  八重山の盆には  欠かせない風物詩である  今年もアンガマは  あの世からやってくる
 

旧盆~ソーロン~

 八重山の盆行事を「ソーロン」(またはショーロン)と呼び、正月同様盛大な行事を行う。盆行事はインドから中国を経て日本に入り、聖武天皇の時代(奈良時代中期)に宮中で行われ天下に布令、国民一般の年中行事となったそうだが、いつ八重山に伝わったかは不明。旧歴7月13、14、15日の3日間が「ソーロン」とされ、各家で祖先をまつり供養する。13日を御迎え(ウンカイ)、14日を中の日(ナカヌビー)、15日を御送り(ウークイ)という。1909(明治42)年、村役所から「生活改善のため2日盆にして、14日に迎え、15日に送り、簡素化しなさい」という内容の厳しい指令があった。数年は実行していた家もあったようだが、やがて旧来通りの三日盆に戻った。ソーロンの特徴は、何といっても「アンガマ」が現われること。八重山でアンガマというと、盆行事に現われる「ソーロンアンガマ」のほか「節(シチ)アンガマ」「家造りアンガマ」「三十三年忌(フーシユーコー)のアンガマ」などあるが、一般的に「ソーロンアンガマ」をアンガマと呼ぶ。
 

アンガマとは?

 アンガマには2系統あり、ひとつは八重山の治者階級であった石垣島四ヶ字の士族で行われていたもので、もうひとつはその他の離島や農村部落で行われていたものである。
 石垣島四ヶ字のアンガマは、後生(あの世)から来た精霊の集団が仮面などで仮装している。その中で特にユーモラスな好人物的面をかぶった翁(ウシュマイ)と媼(ンミ)が中心で、そのほかは花子(ファーマー)と呼ばれ翁と媼の子や孫にあたる。ソーロンの三晩、ご一行は所望される家々を巡り演技を披露。道を練り歩きながら三線、笛、太鼓を奏でる。アンガマ踊り独特のメロディーが月夜に聞こえてくるのは、八重山の盆に欠かせない風物詩。招かれた家では、仏前でいろいろな踊りを演じ祖先の霊を慰めるのであるが、その合間にウシュマイとンミが屋敷に集まった見物人に対して後生を、教訓も織り交ぜおもしろおかしく説き聞かせる。見物人はだまって聞いているだけでなく、ヤジを入れたり、質問を投げかけたりする。これに明答を返すのがウシュマイとンミの役で、能弁さと洒落のセンスが要求されることになる。ただし言葉は八重山の方言、質問も同様。もし、方言がわからなくてもアンガマの独特な発声(裏声)や場の雰囲気はすべての見物人を楽しませる。離島のアンガマはウシュマイやンミは登場しないが、後生からきたとされる集団が、家々をまわり、踊りや歌などの芸能を披露して祖先を供養するのは同様。竹富島では、絣の着物姿で頭巾・クバ笠で顔を隠した女性たちや、三線・笛・太鼓を奏でる島の地謡が家々を巡り、先祖供養の芸能を披露する。各家で最後に巻踊り(円陣舞踊の一種)を踊り、やがて曲調が「六調節」に変わり乱舞でしめることが多い。クイチャ踊りの時は島外の人も巻き込んでにぎやかに行われる。
 

アンガマ以外の盆行事

 波照間では旧盆の中日にあたる旧暦7月14日に「ムシャーマ」と呼ばれる島最大の祭りが行われる。先祖の供養のみならず、豊年や島人の安全を祈る行事になっていて、大旗やミルク(弥勒)を先頭に仮装行列が行われ、舞踊「マミドーマ」や棒術など多様な芸能が披露される。そのほか、石垣島明石や双葉、黒島など本島出身者が多い地区では、旧盆に「エイサー」が行われる。エイサーは祖先の霊を供養する盆踊りで、旗頭、太鼓踊、手踊、チョンダラー(道化役)、地謡(じうてー)で構成される。勇壮な舞や太鼓の音が印象的な沖縄独特の盆踊りで、本島でポピュラー。
 

イタシキバラ

 旧盆・御送りの翌日には、八重山各地で「イタシキバラ」が行われる。邪気払いと地域浄化のために、獅子舞や念仏踊り(ニンブチャー)が催される。イタシキバラが終わると、盆が明けても帰る場所がなかった霊や悪霊が去り、平穏な日々に戻る。
参考文献: 南島祭祀歌謡の研究(波照間永吉著)八重山生活誌(宮城文著)。
 

アンガマ問答

 アンガマでは、次のような問答がくりひろげられる。
問 後生の5ヶ条を教えて下さい
答 一・眼を閉じ息をしないこと
  二・後生に来る時は必ず手足の爪を切り
    逆水を浴びて来い
  三・寝るときは必ず西枕をすること
  四・必ず1人でくること
  五・後生に来たらウシュマイとンミの命令に
  絶対服従のこと
問 後生にも宗教はありますか
答 あるとも。仏教、キリスト教、ミンタマ教、
  マホメット教、カトリック教、
  それにラッキョウ、ウイキョウ、
  ウシュマイの度胸、ンメー愛嬌。信教は自由じゃ
問 西枕の理由を聞きたい
答 生きた人間は太陽が東から昇るので東枕をするのだ。
  しかし後生では西から昇るので西枕するのである
 

口頭芸能

 アンガマの問答は口頭で語り継がれているものであるため、活字による記録が少ない。今回は、南島祭祀歌謡の研究(波照間永吉著)より引用させていただいた。この事例は1981年旧盆に石垣島登野城のあるお宅で行われた問答の一部。近年の若者は日常生活で八重山方言をほとんど使わない。おじぃやおばぁの中には「最近のアンガマはつまらない」と言う人も少なくない。アンガマ問答が定型化され、リアルな話題が盛り込まれにくくなっているからであろう。しかし、各地の青年会がアンガマ行事を継承していくことによって、言語を、口頭芸能を保存する役割果たしているのは意義あることだと思う。
 

ウシュマイ・ンミの霊前口上

 座敷に上がると、まずウシュマイ(翁)とンミ(媼)が当家の仏壇前にひざまずき、お香を上げたあと、両手を合わせてまっすぐ前に伸ばし、水平から頭上に大きく上げ下ろし、大げさな拝礼をしながら2人が交互に大声で身振りよろしく次の口上を述べて焼香祈願をする。

【翁】アートウドゥイ
マタントウドゥイ
アー クンドゥヌソーロンヤ
イイソーロンドウウヤピィ
トゥ ノーデシィサリンアーシ
イイソーロンデアンクカ
ワッチャヌフワーマーカイ
アタル光雄(人名)ヤ
シイカイトゥマイフナーバマレー
オービナーシィキィカザルバシイウダツケンヤ
ドウディンヤフワマーヌメーヌ
カルイバツケータボーリ
ウートウドゥイ
ウヤピィトゥヌマイ
【媼】トウドゥイ
     (中略)
【翁】ウートウドゥイ トウハイ ンミー
【媼】アー
【翁】ワーシィサロールムヌヌアロールカ
シィサローリャ
【媼】ハーウシュマイ ウシュマイ
ハー ンメーヤウシュマイヌ
イカドウブンドウ
トウドゥイ
【翁】イカドウブントウドゥイ
トウ ショッコウヤオーバ
【翁】謹んで願い奉ります
又も拝み願い奉ります
ああ この度のお盆祭りは
大変素晴らしいお盆祭りですよ 御先祖様 なぜ申し上げるごとに
素晴らしいお盆祭りであるのかということは あなたの家の子や孫にあたる光雄(人名)は 大変立派な人物に生まれ育ち
このようにたくさんのお供え物や飾り物をしておりますので どうぞや この子や孫たちの
健康無事息災をお守りください 拝み願い奉ります
御先祖様
【媼】願い奉ります
     (中略)
【翁】願い奉ります さあ おばあさんよ
【媼】はい
【翁】あなたの申上げたいことがありましたら
申し上げて下さい
【媼】はいおじいさんよ おじいさんよ はい おばあさんはおじいさんの御願いの筋と 以下同文ですよ
その通りに奉ります
【翁】以下同文よろしくお願い申し上げます さあ 焼香はこれで終わり

 
以上の口上は1973年8月13日夜、石垣市登野城の宮城光雄氏宅における口上である。
(牧野清著/登野城村の歴史と民俗より)
 

親孝行の思想 無蔵念仏節

 この歌は登野城村の宮良善勝が、西表上原目差時代、首里へ上国の際、首里郊外のアンニヤ村で盆行事に歌う、浄土宗の教えの道を説いた念仏を稽古してきて、これを少々改作改曲して発表したものであると伝えられている。これから盆祭りのアンガマ踊りの座開きには、この無蔵念仏節を歌って、見物人に孝道を示唆したという。宮良善勝が伝えたといわれる無蔵念仏の原歌は記録としては残っていないようであるが、歌そのものは各地で伝承されている。その伝播或いは伝承の過程で前後の組み替えが行なわれ、或いは脱落が生じていると思われる個所もある。登野城では現在次の通り歌われている。
無蔵念仏節
一 親ヌ御恩ヤ深キムヌ
 (親の御恩は深いものである)
  父御ヌ御恩ヤ山高サ
 (父の御恩は山のように高い)
  母御ヌ御恩ヤ海深サ
 (母の御恩は海のように深い)

 このような歌詞が十三番まであり、親孝行の思想が根底に流れている。八重山には『無蔵念仏節』の他に「七月念仏節」「御普代念仏節」「園山念仏」「仲順流れ」等数曲の念仏歌が伝承されている。それらの歌は役人や船員たちによって沖縄から伝播したものである。
 

盆に生まれる不思議な空間

 自分の庭に人を入れ、家の内部を見ず知らずの大勢の他人に見せる。これ自体が珍しいことではないだろうか。その場所を舞台に、先祖とその家の家族と周囲の観客が一緒に楽しむ。仏壇を前に、大爆笑が響き渡る。笑いあり、涙あり、懐かしい人の面影を、大勢集まった場の盛り上がりが、よりいっそう楽しい時間を生み出していく。第一、人の家の仏壇の前である。そこは、遺影が飾られ、供物が用意され、その親族が多数集まる家の一番座と二番座で行われる。そこにいきなり他人がドカドカと行列を作って入るのだから、こんな不思議な空間はない。迎える家も戸が外され、外から見やすくされる。民家に三方から観られる舞台ができるのだ。庭に集まる人は、ご近所に限らず、アンガマを一目見ようと訪れる島人や観光客。家の周囲は、みるみる黒山の人だかり。静かな夜半に待つことしばし、どこからともなく三線と笛、太鼓が聞こえてきたら、いよいよ。家の人も集まった人々も、興奮して一行の入場を待つ。

 

アンガマの面が語る

「アンガマの面を見て、誰も怒る人がいない。馬鹿な笑い方をしてと、あんなに言う人はいないよね。さわやかな笑顔ですね」。多くの仮面が持つ毒々しさが、アンガマの場合、見あたらない。素材のデイゴが持つ木の色のせいか、顔のシワの彫りのできが柔らかい表情に見せるのか。涼しい笑顔だ。
「僕は、あの世へ行くときが来たら、きっとアンガマの(セリフの)何か一言を言ってから逝くんじゃないかなと思ってます(笑)」。石垣島の字新川出身の富永忠さんが、話してくれたアンガマの面に感じる想いである。「僕はそれだけアンガマに魅力を感じています」。
 
>[特集]ソーロン アンガマ後生の精霊「情報やいま 2003年8月号」

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