あの世からの精霊アンガマ

 八重山のソーロンといえばアンガマ行列。青年会を中心に伝統が受け継がれているが、本来のアンガマ行列の姿が変わりつつあるのも事実。またできるだけ昔のカタチに戻そうと努力している動きもある。アンガマに関わる人たちの声から、八重山の旧盆の風物詩をみていきたい。
 

字石垣の玉代勢秀孝(たまよせ・ひでたか)さんにアンガマを聞く

 復帰後(1972年頃)、字石垣のアンガマは約10年のブランクを経て復活した。当時の字石垣青年会メンバーが、地域行事の再建に向けて動き出し、字民に呼びかけた。このとき、同青年会長を務めていたのは玉代勢秀孝(たまよせ・ひでたか)さんだ。
 「字石垣のアンガマが復活したとき、私は地方(ルビ・じかた)をやっていました。とにかく方言の使い手を捜すのに苦労しましたよ。長老や先輩たちにいろいろ聞いて、見よう見まねで覚えました。始めの5~6年間は必死でしたね。」と玉代勢さんは話す。字石垣のダイナミックな振りが特徴である舞踊『南風の手(ルビ・ぱいかじのて)』も先輩たちから聞き出して豊年祭とアンガマで復活させたという。「まだまだ眠っている字石垣の芸能があるんですよ。これを掘り起こしていくのが楽しみですね」と語りながら、目の前で現青年会のメンバーが祭りの準備をしている様子を見守っていた。
 玉代勢さんは現在、字石垣のイシャナギラ邑(ルビ・むら)むつ会の会長を務めている。この会は青年会OBが主で、地域行事では後進の指導をしたり、地域でパトロール活動をしたり、青少年たちのバックアップをしていこうという会だ。今、指導者的な立場になった玉代勢さんは、特にアンガマについては「今後やっていく上で、自分たちと若者たちの方言の使い方がずいぶん違うのが心配です。現代語訛りのアンガマっていうのはちょっと…。間違えなんか気にせず普段からどんどん方言で先輩たちに話しかけなさい、と現青年会メンバーにいっているのですが」と話す。「自然の流れはある、止めるつもりはないけれど、昔のものが消えていくのは寂しいですよ。若者にはもっと方言を勉強してほしいと思っています」。
 ほかにも、ここ30年間で生活が大きく様変わりしたためかアンガマ問答で繰り広げられる問答内容が、現代語に訳してもよく分からない若者が増えているという。生活の中で培われたできごとを、おもしろおかしく方言で語ることが難しいので、内容が定型化しているのも不安材料という。
 「アンガマ行列の一行はね、その家々のご先祖の霊を慰め子孫繁栄を願うのだけど、相手の家のことをよく知らないといけないんですよ。たとえば、最近ここの家ではめでたく結婚した息子がいる、とかね。そういう家では霊前口上や問答の時にその話題を盛り込もうということになる。つまり地域の出来事を普段から知るのが大切です。最近は子どもたちに屋号で『xxさんの家の前に…』なんて話しても『どこそれ?』と通じないのが悲しいですけどね」と語っていた玉代勢さん。地域を知ることは、人を知ることになる。人と人の「つながり」が希薄になりつつある現代に、アンガマは接着剤的な役割も果たしているのだと教えてくれた。(ツチヤサチコ)
 

アンガマとエイサーが見られる竹富(てぇどぅん)のショーロ

ショーロの流れ

竹富島ではお盆をショーロと言い、先祖の霊のことをショーロガナシと言っている。旧暦7月13日、つまりショーロ初日を「ンガイルヒ」、14日を「中ショーロ」、15日を「送(うく)る日」と呼んでいる。このショーロ三晩の夜には、島の男女が一定の服装で三線にあわせて念仏歌(ニンブチャー)を歌い、依頼のあった家に行きアンガマ踊りをしてショーロガナシを慰める。あの世からの使者であるアンガマ踊りをする人たちの格好は、クバ笠を被り、顔は手ぬぐいやタオルなどで覆い、絣の着物をきて誰か判別できないようにする。その格好が女性の姿をしていることが、アンガマの語源(アン=母・ガマは愛称語)の一つの説として残っている。
 またショーロを迎えるにあたって、各家ではいろんな準備が施される。13日はショーロガナシが通る道として軒下から門前まで白い砂を敷いて、門前にはわらでかがり火を焚いてショーロガナシを迎え入れる。座敷の仏壇の霊前にはご馳走を供える。14日は霊前に特に海、山などの珍味を供える。15日は月桃の葉で包んだサンミ餅(むち)を供え夜の11時までに供養し、その後門前までかがり火をつけショーロガナシを送る。昔は墓の近くまで見送ったという。ニンブチャーも日によって歌が異なり13日が孝行念仏、14日が七月念仏、15日が園山念仏が歌われる。

竹富島のアンガマの特徴

 竹富島のアンガマは、石垣島の四ヶ字のアンガマと比べると異なる点がいくつかある。四ヶ字のアンガマの名物ともいえる面を被ったンミとウシュマイは、竹富島をはじめ離島にはでてこない。また四ヶ字では舞台が各家の座敷になり、ウミとウシュマイやそれらの子孫にあたるファーマーや見物人たちは、各家の座敷に上がる。竹富島では各家の座敷に上がるのは地人(じひと)と呼ばれる三線、笛、太鼓などの楽器を演奏する人のみで、庭でショーロガナシを供養する踊りが奉納される。踊りが終わった後には「六調節」などのモーヤーで、見物人も巻き込んで乱舞で締めくくる。
 また竹富島は3つの集落から成り立っていて、世持御嶽の東側の道を挟んで東をあいのた、西をいんのたと呼びこの2つを玻座間村と言う。またンブフルの丘を越えたところを仲筋集落と言い、アンガマは玻座間村で行われ仲筋集落では行われない。
 ここ近年のショーロでは竹富青年会がエイサー隊や仮装隊を演じて場を盛り上げるようになった。以前は青年会という形の参加はなく「お盆の時に青年会でどんなことをしようか?」となったときに「いろんな格好をして踊ろう」というのがきっかけとなり、仮装隊がはじまった。仮装隊は直前まで練習内容は非公開で、青年会のメンバーや島に帰ってきた学生などが参加し、当日のモーヤーなどを盛り上げる。その後島出身のミュージシャンの日出克さんが作ったミルクムナリがヒットし、エイサーは沖縄本島のお盆で行われるものだったが青年会もこれにあやかって始めるようになった。エイサー隊は要望があれば仲筋集落へも行く。

スードーリ

 さて3日間のショーロが終わった翌日になると、スードーリという行事が行われる。スードーリというのは3つの集落から海に通じる道の草刈りや掃除を行うもので、無縁仏を送り返すもの。これは十六日祭(ジュルクニチ)の後にも行われ、行事でお腹いっぱい食べた後に怠け癖がつかないように早起きの総出作業となる。ショーロ明けのスードーリは各地のイタシキバラに当たるもので、島のミルクと獅子は相性が悪いということで竹富島には獅子がいない。ただ獅子舞に使うシシノボウは残っていて、昔はスードーリのときにシシノボウを使って無縁仏を供養していた。

今後の課題

 大浜信一郎竹富青年会会長は「エイサーは成人式のときの青年会の余興としてやっていました。お盆のエイサー隊は青年会だけだとメンバーが少ないので、近年ではお盆で島に帰ってくる学生や民宿組合のヘルパーも一緒にやっています」と話す。普段島の人たちと交流が少ない県外からの民宿ヘルパーたちも島の人との親睦を深める場にもなっているようだ。また喜宝院蒐集館館長、上勢頭芳徳さんは「青年会は独自のアイディアだして、アンガマを盛り上げてくれます。今後の彼らには島の伝統的なアンガマの復活を期待したいです」と話す。
 どこの地域も同じ時期に行われるお盆だけに、アンガマ踊りとエイサーを一緒に見れる竹富島は1度で2度おいしいと感じられる。またアンガマの今は行われなくなった部分の復活にむけ、島の先輩たちは若い人にその芸を伝承していくことを願う。
 

白保村の獅子

 白保の獅子は、旧盆に演じられ、新築の家などに招かれてヤーザライをして夜な夜な廻ります。無病息災を祈願して、白保村を悪霊から払い清めるのが獅子舞です。
 旧暦7月13日の迎えの日には、獅子のトゥニムトゥである宮良家に、獅子舞の登場を心待ちにする人が集まってきます。赤ちゃんが元気に育つように、獅子が赤ちゃんを飲み込んでしまう儀式も行われます。あれは胎内くぐりの一つで、体の弱い赤ちゃんが獅子の胎内を通ることによって丈夫な赤ちゃんに生まれ変わるというおまじないです。子どもたちは獅子に向かって「れるれ、れるれ~」と唱えて、その声に呼ばれた獅子は、子どもたちに噛みついたり、引っ張りまわしたりします。
 

親子の情愛を表現する獅子舞 宮良の獅子舞 3頭の獅子が舞う

 およそ300年前からと言い伝えられている宮良の獅子舞。旧盆明けの16日にイタシキバラと合わせておこなわれる。宮良村獅子舞保存会の前会長、嵩田勤さんに獅子舞について聞いてみた。

イタシキバラの中で


宮良の特徴である子獅子は、一人が舞う。イタシキバラの後は、新築の家をこの子獅子が巡ることになっている

 「宮良の獅子舞は、イタシキバラの行事の中で披露されます。」
 イタシキバラは、トゥニモトゥ(獅子の家元)とオーセと公民館の前の3箇所で行われるという。そこでは、神司とその関係者20名が舞踊を見せる。そして、この行事の中で獅子が舞われる。
 「イタシキバラの雰囲気は、祈りが内在する神聖なもので、神司がやるから、神々しさがでます」と嵩田さん。
 このとき、イタシキバラで見られる宮良のアンガマ踊りがある。このあと座敷では宮良を発祥とされる民謡が、彼女らによって披露される。
 赤馬節、目出度節、ヨウホウ節、宮良川節、宮良口説など宮良発祥の民謡のほか、鷲ヌ鳥、鳩間節なども披露しながら、無病息災と、家内安全を願う。

珍しい3頭の獅子

 「宮良の獅子が3体となったのは、そんな昔からではないといわれています。」と嵩田さん。
 後から1体が追加されたという。もとからある雄雌の獅子は、300年の歴史がある。
 「子獅子が生まれたのは、浦内家の人に獅子の好きな人があり、自分で子獅子をやっていたところ、いい感じに村で評価され、親子獅子という形で、いつのまにか取り入れられ、3頭獅子の親子獅子になっているのです。」
 自然に取り入れられていった歴史があるようだ。従来の怖い獅子とは違う獅子が生まれたと言えよう。
 「子獅子の顔が、非常に可愛いですね。また、通常と違い宮良の子獅子は、2つ足です。」どうやら、そこも珍しい。
 雌雄の獅子と子獅子を舞わせたところ、親子の情愛がみなぎる、ほほえましい光景に映ったのだろうか。アンガマで唄われる曲には、親の恩を詩う詞がある。それと重なっておかしくない。とすれば、3体の獅子の舞姿に、深いものが感じられるのかもしれない。
 「舞っているのは、中学生や高校生なんですよ。」と嵩田さん。
 ここで2重3重に「子ども」を見ながら、親を思う村人の姿がある。

獅子舞の今昔

 嵩田さんは、獅子舞を23歳ころやったという。
 「私たちの頃は、皆が一様に農業をしていた。だから、時間が同じように合わせられる。時間も行動もいっしょですから。」
 今は職業がまちまちで、なかなか時間が合わせられないという。
 昔は成人になったら、獅子舞と棒術をやる。それは当たり前のことだったという。
 「今は、非常に苦労しています。武術だったら、一人ではできない。相方が仕事で来れないと練習ができません。」
 当然、仕事優先であれば、無理やりさせるわけにもいかないという。
 「そこで、高校生に獅子舞をするから人を集めてくれというと、ぱっと集めてくれる。」
 また、卒業となれば後輩を集めてくれるとも。先輩が細かく後輩に、こうだよと教えて、手取り足取り教えてる。先輩と後輩とのつながりも出来、また村の行事への認識も高まるという。
 現代は、中高生どころか小学生まで、いろんな事件を引き起こす時代。そんな世相の中で、先輩と後輩の間での、こういった心の中に染み入ってくるようなものが、一番大事ではないかと嵩田さんは真剣にいう。

親子の情愛

 「獅子舞は各地にありますが、宮良の特徴は親子の情愛を見せる3頭獅子が特徴です。」と嵩田さん。
 「獅子舞は舞い方がどこも激しいすね。ところが宮良は、おとなしいのです。親獅子のまたの下に子獅子が潜ったり、親にじゃれてみたり、親はそれを跳ね除けたり、かばったり、そういう所作がありますから・・・かわいらしいですよ。獅子というと、驚かすものですが、宮良のものは、甘える、じゃれるという獅子です。」
 多くのイタシキバラの獅子舞は、子どもを泣かせるほどに恐ろしい獅子を走らせる。しかし宮良では獅子舞にまで子獅子を登場させ深い情愛を見せる。亡くなった親を思う盆行事としては、もっとも進んだ獅子舞かもしれない。
 

盆明け行事はスースパースィ 平得のお盆行事 アンガマは癒しの場

 方言のわかる人が、思わず大爆笑する。わからない人もつられて笑う。お盆というと、亡くなった人を思い返す湿っぽさがでてきそうな座である。そこをスカッと、明るくしてしまうのがアンガマだ。平得のアンガマと獅子舞について、田盛一雄さんと平得青年会に聞いて見た。

遺影の前の大爆笑


「平得ではイタシキバラとは言いません」と田盛一雄さん。旧盆明けの16日はスースパースィと言われているという。

 「平得ではアンガマは、楽しむためにあります。仏教への関心をひくというよりも、忙しいお盆行事の中での癒しの場です」と、田盛一雄さんはいう。
 アンガマというとあの世から派遣されたウシュマイとンミーが子孫を引き連れて家をめぐり舞踊を披露。またあの世についての珍問答も展開される。
 遠い祖先たちは濃厚な方言を話すはずだから、当然、問答は方言でおこなわれる。かくして、公衆の面前で堂々と方言を話す機会が、毎年旧盆に生まれている。
 仏壇のそばには遺影が飾られており、その前で大爆笑を生み出すアンガマ一行。仏壇のそばに座る家主が、笑いながらも涙目になっていたなら、きっとそれは故人が生前、アンガマを招いた時に発した笑い声を、家主が思い出したからかもしれない。
 楽しいから思い出となるのだ。

方言100%は無理


豊年祭の練習に集まった平得青年会。

 田盛さんはいう。
 「若い人がやっていることもあり、残念ながら問答で方言を100%使うというのは無理です。それより、楽しくやることが大事です。」
 田盛さんは解説する。
 「そもそもこのお盆行事は、仏を大事にするよう琉球王朝が奨励したものであり、仏に盛大に供物をして、そのお下がりは頂いていいという趣向のもの。」
 当時の農家にとっては、お下がりの贅沢がとがめられないところに意味があったという。ウサンダイといわれるこのお下がりを頂く風習は、いわば公然と十分な食事が取れる日があることを意味する。昔は、何かにつけ月に一度は、仏にお供えしてお下がりを楽しむ行事をもったと田盛さんはいう。自分たちが困らない程度に、ご馳走を食べる日をつくってあったのだという。大切なのは楽しくやること。

ストローの酒の味

 今年の平得青年会会長、荻堂盛久さん(27)は、今年でアンガマは5年目になるという。後輩へ豊年祭の練習をつける合間に話を聞いた。
 「平得青年会のメンバーは10数名。これに高校生やお盆に帰省する人の10名が加わり、総勢20数人です。旧盆の2週間前に練習が始まります。」
 「アンガマの面をかぶる人は、自己申告でやりたい人がやる。大量の酒を飲まされることを考えると、酒が強くないとできないかも。」とも。
  なかでもアンガマはお面をしているためにストローでの酒だ。
 「ストローで飲むビールの味というのが、なんともいえない。」と荻堂氏。
  はたして、どういう味なのか。尋ねてみれば、荻堂氏は少し思案して、
 「アルコールのにおいのする泡を飲む感じです。」
 どれだけ飲んだか皆目わかならい飲み方になることは間違いがないようだ。

アンガマの日程

 平得のアンガマのスクミ(リハーサル)は旧暦の7月11日。12日は花笠づくりをやり、本番13日、14日、15日はアンガマとなって家々をめぐり、16日は、トゥーズミとなる。
 このトゥーズミは、スースパースィがおこなわれる日でもあり、そこで最後のアンガマが披露される。ファーマーはサングラスをはずしており、メンバーの紹介がおこなわれるなど、和気あいあいの雰囲気となる。

獅子舞

 「平得の獅子は呼吸しています」
 荻堂氏は平得のスースパース(獅子演舞)の日の獅子舞の特徴をそう表現してくれた。
 命が宿るように躍動してくるのだろうか。
 スースパースィの日は旧暦の7月16日。大浜、宮良でいうイタシキバラの日だ。
 平得青年会の大和田直(23)さんは、獅子の役は今年が2度目。本番用の衣装をつけて、いざはじめようとすると、ぐっとくるものがあるという。塩と酒で清めたあと、「よっしゃー」と気持ちが入り、さらに本番直前で、「さあいくぞ」となると、別世界になって気持ちがとんがってくるとも。
 実際、獅子は過酷らしい。本番に着る衣装は、練習では考えられないサウナスーツ。
 「ずっと中腰の姿勢で20分の演技ですからまず腰にきますね。」
 しかも、獅子の頭を持つ二つの腕は突き出しっ放しである。しかも小さく開いた口しか視界がない。後ろの人などはまったくの暗闇である。毎年、4人の内の1人か2人は吐くという過酷さを大和田氏は、是非書いてほしいとも。しかし過酷でもやりきる心意気がある。
 この取材で感じたのは、伝統を伝える側と受け継ぐ側のその心意気だ。
 荻堂氏は最後にいった。
 「自分が感じた達成感の心地よさ。これを後輩にも味合わせてあげたい」
 これが伝え、そして伝わる統(す)べてのものの、原点ではないだろうか。
 

[特集]あの世からの精霊 アンガマ「情報やいま 2004年8月号」

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