虫採網のララバイ

 八重山諸島の魅力のひとつに、自然の豊かさ、日本本土とは異なる生物層の多様性、そして、未知な領域がまだ残されている可能性のあること、などが挙げられる。生物関係の学術出版物を見ても、年に数種の「新種」が報告され、数多くの新知見が記載されている。  
つまり、それだけ多くの研究者やマニアが足繁く島々を訪れ、自分達の「知的興味」を追求し、ある者にとっては学術上の成果を構築したり、ある者にとっては余暇を楽しむ舞台(フィールド)として活動していることが分る。無論、同じ興味を持つ人々が百人集まれば、中にはビジネスに結びつける人も現れる。(それは、世の習いと言えようが・・・)  
このような特定の目的を持った人にしろ、観光客にしろ多くの人が島を訪れると、経済的効果は現れるものの価値観の違いなどから住民との間に誤解や偏見、摩擦などが生じ、また、自然への負荷も懸念される。ここでは、八重山へ昆虫採集に訪れる人々の時代的流れや、近年起きた諸問題をとりあげ、自然と地域社会への関わり方、また、行政の対応のあり方などを検討してみたい。

島での昆虫採集パイオニア、岩崎卓爾翁


バナナセセリ

八重山で一番初めに虫捕りをはじめた人はと言えば、言わずもがな島の子供たちだが、「記録を残す」という採集本来の意図をもって地元ではじめた人は、「テンブンヤーヌウシュマイ」こと石垣島測候所二代目所長岩崎卓爾であろう。
宮城県出身の岩崎は明治31年、彼が29歳の時単身赴任し、68歳までの40年間を石垣島で過ごしその生涯をとじた。当時の石垣島といえば今日のような航空便も無く、長い船旅の末、沖合いに停泊した本船から艀に乗り換え木造の桟橋に上陸するという交通不便な地域であった。そんな辺境の地にあって岩崎は職務以外でも自然や島の文化に関心を寄せ幾多の業績を残している。そのひとつが島の生物を標本として各分野の専門家の下に送ったことであろう。
「イワサキ」の名を献名された種を拾い上げても、イワサキワモンベニヘビ(コブラ科)、イワサキセダカヘビ(ヘビ科)、イワサキゼミ(セミ科)、イワサキクサゼミ(セミ科)、イワサキヒメハルゼミ(セミ科)、イワサキシロチョウ(シロチョウ科)、イワサキコノハ(タテハチョウ科)、イワサキキンスジカミキリ(カミキリムシ科)、イワサキカメムシ(カメムシ科)、イワサキオオトゲカメムシ(カメムシ科)、等があり、その他にも現在は使われなくなったイワサキボタルなどの種名もあった。
岩崎自身が生物の分類研究をしたわけではないが、明治、大正、昭和の初期にかけて八重山の生物を照会した意義は大きい。事の起こりは彼自身の気象観測の仕事と深く関わっていたのかも知れない。生物たちの出現、営みの周期は春夏秋冬、自然の巡りと同調している。ウリズン(若夏)の頃には畑や原野の草薮でイワサキクサゼミが鳴きはじめ、続いて、イワサキヒメハルゼミ、晩秋まではイワサキゼミが鳴き競う。また、二十四節気の暦でみれば芒種を過ぎ夏至になるとリュウキュウクマゼミが一斉に鳴きはじめ、寒露の頃にはサシバ(ワシ・タカの仲間)が渡るといった具合に・・・
このように自然界の移ろう現象(植物の開花や実り、小動物の出現)を理解するには名前が必要になる。ところが地元の人に聞いても方言名で曖昧な答えしか得られず、岩崎は混迷をきわめたのであろう。そんな身近なことが原因となって新種の記載、献名へと_がったのかも知れない。言い換えれば、それほど生物学の分野では八重山諸島は手付かずの地域だったのである。

左:タイワンキマダラ   右:クロテンシロチョウ

 
八重山諸島で各分野の学術調査が行われたのは、1904年鳥居龍蔵による川平貝塚発掘、1920年柳田国男、1923年折口信夫らの民俗学研究、調査では笹森儀助、田代安定らが渡島したが生物関係では主だった調査が行われていなかった。第二次大戦後民意を受け米国軍政府が沖縄本島の首里に琉球大学を創設し、その後、1966年琉球政府立、日本復帰後国立となりやっと教育、研究機関が沖縄県にできあがる。
岩崎卓爾が活動した明治から昭和初期にかけては、昆虫面では北海道大学の松村松年、九州大学の江崎悌三、台湾にいた楚南仁博らに標本を送って同定を依頼していた。
当時の日本においては南方の生物学の拠点は領有地であった台湾にあって、九州から台湾に至南西諸島は死角になっていたようだ。昭和に入り戦時中の混乱期を過ぎてからも米国の統治時代がつづき、日本復帰直前になって琉球大学の高良鉄夫教授の協力を得て動物作家の戸川幸夫氏が西表島にてイリオモテヤマネコの調査を行い、骨格標本を持ち帰り国立科学博物館の今泉吉典博士が新種発表することで一躍注目の的となった感がある。それまで八重山諸島は戸川氏の著書「原始の島」のタイトルが示すように生物学界にとっても未開の地域に等しかったのである。


イワサキクサゼミ

そのことが「イワサキ」の名の付く昆虫類からも窺える。イワサキクサゼミはキビ畑周辺の草むらに極普通に見られるセミであり、イワサキヒメハルゼミもイワサキゼミもけして珍しいセミではない。しかし、岩崎が照会した標本によってはじめて日本における分布が学術上記載されたのである。その意義は大きい。
沖縄が日本復帰してからは、若い研究者が各面で来島し、フィールド調査に従事した。民族学では安渓遊地・貴子夫妻、生物学では安間繁樹氏らがあげられる。その頃から交通面でも整備が進み、石垣島から西表島間の離島にはフォーバークラフトが就航し、西表島東部と西部を結ぶ北岸道路が開通すると、秘境「ヤマネコの島」にも一般観光客が多く訪れるようになる。
昆虫面ではマニア層の多い蝶の採集者が観光をも兼ねて増え、石垣島を拠点に各離島へ足を運び、採集記録を同好会誌や学術会誌で報告するようになる。未知であり話題性の高い分、誌上での報告も多く全国の読者に届き、それまで図鑑でしか見たこともない南方の種への憧れが掻き立てられ、やがてマニア向けの情報誌も発刊されるようになると採集者の数は増大の一途を辿ったのである。

探究心を煽る「謎の蝶・憧れの蝶」


ベニトンボ

昆虫は私達にとって最も身近な生物と言えよう。子供の頃からアリやチョウやトンボ、セミといった種には、たとえ都会暮らしでも一度は接したことがあるはずだ。
その形、色、動き、は子供の心にも強い好奇心を呼び起こす。高学年になってもそれなりにトンボやセミの羽の精巧さや鳴き声の美しさに魅せられたり、奇妙な行動、各器官の働き、生態の不可解さに知的関心を寄せる。大人になってさえトンボの飛翔力の優秀さ、感覚能力の特異性、集団行動の不思議さなどに驚嘆させられる。昆虫は年齢を問わず興味の対象となったり、発見があったり、探究心や感性を刺激する自然界の存在と言えよう。
そんなことからもマニアと呼ばれる人々の層は幅広く、大臣を務めた政治家から理系や農系に限らず文系や工系、医系の大学教授、作家、会社役員、教師、デザイナー、設計士、自営業者、会計士、学生にいたるまでみられる。そして、興味の向け方もまちまちで、偏に標本収集に重点を置く人もいれば、飼育をして観察を楽しむ人がいたり、写真やスケッチの対象にして表現したり、採集と旅行を兼ねたレクレーションとして楽しむ人もいる。
無論、昆虫学を専攻した研究者たちもいる訳だが、この分野の特徴としてマニアや一般の人たちによるサポートが学問上強力な力となっていることが言えよう。分類や生態といった面では広範囲を網羅する標本や知見が欠かせないからである。いち地方の気象台職員であった岩崎卓爾の標本照会が重要な役割をはたしたことでも理解できる。
マニアや一般の人たちの情報が学問上重要視されることも昆虫採集の魅力の一つであるが、その例をあげてみたい。
八重山諸島には、タテハチョウ科のヤエヤマムラサキという蝶が生息していて、年によってはかなりの個体数を見ることができる。この蝶を図鑑で調べると昭和十年松村松年著「日本昆虫大図鑑」には、「沖縄石垣より発見せられたれども稀なり、南洋パラオにも発見せられる」とあり、昭和十七年(二版)内田清之助著「日本昆虫図鑑」には「琉球八重山地方に産するほか、伊豆大島にて得られたることあり」と図入りで紹介されている。
当初はこの蝶が八重山諸島に多く見られることからヤエヤマムラサキと言う和名が付けられたが、ウェーバー線西側の東南アジアに分布するものの日本においては土着種なのか迷蝶(偶産種)なのかは分っていなかった。多くの採集者たちの報告によりまったく見られない年もあることが記録され長い年月の末、迷蝶であることが判明する。この事実の決定にも各離島での発生消長の記録がまとめられる必要があり、マニアたちの同好会誌などへの投稿や口コミが重要な鍵となる。なぜなら一人の研究者が確認できる範囲は限られたものであり、たまたま出会えなかった可能性もあるからだ。その点、多くの人たちの証言、報告は信憑性が高い。
やがて、オオイワガネという植物に産卵され、母蝶が卵の孵化するまで擁護するという生態面での報告も見られるようになる。おなじく6月から晩秋にかけて個体数が増す傾向にあり、天敵であるヤドリバエの確認も報告される。


ヤエヤマムラサキ

アサヒナキマダラセセリ

その後、分りつつあることは冬季の気温が最低15度以下のぐづついた天気が1週間ほど続くと冬を越せないことが観察されたり、年によって冬を越したのではないかと思われる報告も寄せられる。また、ヤドリバエの同定結果で、この種も八重山諸島には分布しない偶産種であることが分り、ヤエヤマムラサキが多発生する年とそうでない年とは、この天敵の飛来の有無や時期が関わっているのではないか、などの予測もされるようになる。
こうした多くの情報の結果から、ヤエヤマムラサキという一種の蝶の問題ではなく、八重山諸島の生態系全体のあり方や現在の環境変化のあり様などが読み取れてくるのである。
当然、一種の蝶の動向から生物界や地球規模の環境変化を考察するにはいち布石にすぎないが、同じように他種を調べあげ共通性を探れば、蝶というorder(目)さらには昆虫というclass(網)のレベルとして生物共通の問題性と_がるはずである。
八重山諸島の蝶相の特徴として迷蝶(偶産種)の多い事が、日本各地域と比較して言える。蝶に限ったことではなく飛翔力のある昆虫、あるいは気流や風に飛ばされる昆虫もしかりである。それは地理的にユーラシア大陸の東に位置し、モンスーン気候に属することが起因している。冬には北風が吹き、夏には南風が吹く。この季節ごとの風の変化が迷入に強く関わる。八重山諸島に迷入するヤエヤマムラサキはフィリピン亜種であり、6月前後の南風に乗って飛来し、八重山諸島で一時的な発生を繰り返し、随時個体数を増やしていくものの熱帯産の種であるため現在の八重山地方の冬の気温では冬越しができない状態であることが分る。しかし、近年、冬を越したのではないかと思われる早い時期の成虫採集記録もあるため、このまま温暖化が進めばいつしか土着種として定着する可能性もありうる。分布の北上を示唆する他種の報告も多々あり、自然環境の変化が蝶をとおしても分るのである。ただし、ヤエヤマムラサキの場合、食樹であるオオイワガネの分布が沖縄南部までなので、それ以上の北上はあるまい。


オオゴマダラ

このように生息環境によっても分布の限界があるが、食樹が温帯地域まで自生していたり、人為的に栽培される場合は分布の拡大が可能であることも他種は示している。
生物の分布は固定された範囲ではなく、常に拡大や縮小する流動性をおびるものであり、それらは世界的な環境の変化に起因している。
他の蝶類では人為的な環境の変化で迷入した種が一時的な発生をしたり、定着したケースも報告されている。そのひとつはセセリチョウ科のクロボシセセリで、1973年石垣島、1975年宮古島、1977年沖縄本島、1986年与論島、1984~1988年沖永良部島、1985年徳之島で初発見され、食樹が椰子類であるため台湾から輸入された椰子と共に卵や幼虫が入った帰化種と推定されている。現在では、石垣島においては極普通に見られる蝶で植栽される椰子類の害虫とされている。
また、一時的な発生ではシロチョウ科のキシタウスキシロチョウという種が1990年に石垣島と竹富島で日本では最初に記録され、その後、1991年石垣島で一時的に発生した記録もある。この蝶の食樹はマメ科のモクセンナであり、石垣島では産業道路脇に植樹されている。その他、各家庭や運動公園など公共施設にも鑑賞用として植えられている。
このように昆虫類は環境の変化と共に分布域を常に変化させる要素を秘めているわけだが、その様子が克明に記録されているのはマニアたちによる報告に依存するところが多い。
勿論、それらの報告をまとめる研究者の努力があってこそであるが、採集するという行為は単なる娯楽に終わっていないのである。

天才、秀才、奇行、愚行、「虫屋」の生態


サキシマヒラタクワガタ

昆虫採集を好きな人たちを一名「虫屋」と呼ぶ。決して虫を商いにしている人だけを意味する言葉ではない。この虫好きな人たちには様々な職種の人たちがいるが、日ごろ普通の社会人であっても採集にでかけると、その行動様式は一般の人たちに理解できない部分が在るかも知れない。所かまわず大きな捕虫網を持って徘徊する姿は、人によっては悪意をもって見られる。逆に網を持たずに他の人には見えない小さな昆虫を探しまわれば、不審に思われる。訳も分らぬ虫を採るために遥々飛行機にのって南の島まで訪れること事態理解できない、と思われる方も多いだろう。これは価値観の違いなのだからいたしかたないことだが、このあたりで偏見や誤解が生まれるケースも多い。世間様から見れば、非常識な行為も枚挙にいとまがない。幾つかのエピソードを紹介しよう。
ある設計会社に勤める東京のAさんは結婚して間もない。彼は甲虫の飼育マニアで休日の一日を長野県の高原にある牧場へ採集に行く計画を立て、奥さんに一緒に行こうと声を掛けるが、奥さんは自分の仕事の都合で休みがとれない。当日の早朝、普段は作らぬお弁当を奥さんが持たせてくれAさんは一人で採集にでかける。その日の夜、奥さんが仕事から帰宅するとすでにAさんは就寝。奥さんが台所に行ってみると、朝持たせた弁当箱は洗って片付けてある。おかず入れのタッパーがないので、食べ残しでもしたのかと冷蔵庫を開けてみると、朝作ったおかずではない物が入っている。何やら味噌状の物がズッシリ詰まっている。翌朝、Aさんが目覚めてから奥さんが尋ねる「おかず入れのタッパーに入っている物、信州味噌?」、Aさんが答えるには「ああ、あれね、センチコガネを飼おうと思って餌の牛糞を詰めてきた」、「・・・」その後、Aさんは暫く採集に行かせてもらえなかったそうな。
石垣島のある民宿では、お客の一人が五日間も昼間は部屋に閉じこもり、夕食を済ますとレンタカーで出かけ、朝になると帰って来る。普通のお客は、昼間、観光地巡りや海に出かけるのにと不審に思った宿のオバさんが「ニイさん、毎日何していらっしゃるの?」と尋ねると、無精ひげを生やした青年はぶっきら棒に「自動販売機周りです」と答える。宿のオバさん「・・・?」。どうやら、自動販売機の灯りに集まる虫を採集していたらしい。虫屋仲間では「夜周り」と言って、発電機などを持ち込まずに光に集まる虫を採集する方法なのである。夜間外灯の下や自動販売機の周辺などで不審な人影を見たら「虫屋かな?」って思って欲しいが、窃盗や痴漢との区別は難しいかも知れない。
島人のBさんが夜遅く郊外のキビ畑脇の道路を自動車で通りかかると、前方に人が倒れているのをヘットライトの灯りの中に認めた。急停車して「どうしたのですか」と尋ねると横たわった男は顔だけ向けて「車のライトを消してください」と答える。Bさん「・・・?、」「何をしているのですか?」と尋ねると男は「虫の写真を撮っているのです」と言うのである。
夫婦で教員を定年退職したCさんの奥さんは言う。「うちの旦那が旅先から送る荷物は洗濯物と枯れ木ばかし」おかげで庭に枯れ木を収納する物置を一棟新築したほど。枯れ木には石垣島、西表島、与那国島、沖縄、奄美、鹿児島、大分、島根、と北海道までネットにラベルが貼られずら~り、枯れ木からでてくるカミキリムシを採集するそうな。年末の一日は古くなった枯れ木を庭で燃やすのが年中行事とか。
と、まあ、エピソードは限がない。それらは「人それぞれ」で片付けられることかもしれない。しかし、採集地での出来事は地域の人々にとって不快や反感を招くこともある。採集行為そのものの是非は別として採集者は地域の人たちのために心がけなくてはならないことがあるはずだ。

虫を採りたいがために・・・

採集者が増えたために八重山諸島の各地域で問題になっていることがある。そのひとつに畑への無断侵入があり、農家の人たちは頭を痛めている。於茂登集落でウコン栽培をしているDさんは「秋になると、朝、畑の中にかならず見知らぬ人が入っている。畑の土は開拓当時以来育ててきたものだから踏み固めて欲しくない」と言う。シロウラナミシジミというウコンの花を幼虫が食べる迷蝶を採集しに来ているのだ。「なかには、毎年来る人で挨拶して畑周辺で採集していく人もいる。でも、入れ替わり立ち代りいろんな人が来るからね」結局、Dさんは、畑の入り口にロープを張ることになってしまった。これはウコン畑に限らず与那国島ではミカン畑に採集者が入り枝を持ち帰ったり、パイン畑であったり、インド藍の畑であったりする。
一方、林道や山中でもいろいろな問題が起こっている。林道脇にはバナナやパイナップルの果実が入ったストッキングが梢にぶら下げられたまま放置されていたり、ヒットトラップの水盤がそのままになっていたりする。水盤に満たされた水にはボウフラがわき蚊が発生する。これらトラップは設置した採集者が責任をもって回収しなければならないはずだ。山中では夜間クワガタムシを採集する人がビニールテープを張り巡らし目印にして放置したりしている。年々、その数は増し、最近では古いテープと新しいテープが交差して幾本も張られている場所がある。採集者は新しいルートを作ったのだろうが、回収をしないままだ。
数年前には、あってはならない出来事が起こってしまった。島の人たちにとっては聖地として崇められている御嶽のイビの中にヒットトラップが仕掛けられていたのだ。この場所は司以外何人も立ち入ることが禁じられている。それも御嶽周辺の森そのものも県の天然記念物に指定されている地域だ。そんな場所に何故・・・?という疑問がわく。しばらくして市教育委員会文化財巡視委員がその事態を目撃し撤去勧告の張り紙を張る結果となった。
日本各地で採集禁止地域が指定されている今日、目に余る採集者の行為は自らの首を絞めることになる。地域の自然に配慮する心構えや地域社会の文化を理解する態度が無い限り非難の目が向けられるのもやむおえないことだ。八重山に採集にこられる方々は、是非そのことを心に刻んでほしい。

この記事をシェアする