石垣市・竹富町・与那国町は、四方を海に囲まれ、島々はその中にぽっかりと浮かんでいるように見える。海はどこまでも続き広がっていく。その海を、自分の庭のように波をきって走り、魚を追いかけてゆく男たち海人がいる。
沖縄県内をみても八重山は、漁業ひとすじに生きる海人の数は多いと聞く。天然資源である魚が、ほかの地域に比べて、まだそれだけいるということである。八重山の海で捕れた高級魚は、本島の鮮魚連に送られ、本マグロなどは本土へ送られる。八重山の魚は空を飛び、たくさんの人たちを喜ばせる。
けれど、「昔は魚がいたのに、今は捕れなくなったなあ」と、海人のおじーたちは言う。八重山でも確実に捕れる量は、減っている。捕る魚も漁法も少しづつかわり、魚類やモズクなどの養殖という新しい分野もでき、海人たちのかたちも、時代とともに、自然の姿とともにかわっていく。漁業に限ったことではないが、後継者という問題がある。しかし八重山では、県内のほかの地域に比べて、若い世代の漁業への従事の数は多く、特に登野城地域は、若い後継者が多いという。
父親は海をあるき、母親は家をまもる。その姿を見て育った男たちの多くは、父と同じ海人という生き方を選んでゆく。
海人たちのなかに流れるひとすじの道は、どこまでも続いていく。
八重山の海を食べる~捕る人がいれば、売る人がいる~
八重山ガイドセレクト特集「海人ひとすじ」 海人の妻たちはたくましい。夫たちが海にでているあいだ家を守り、家計をとり仕切り、子供たちを育て、夫が捕ってきた魚を売りさばく。そして親を見て育った息子たちは、父と共に海をあるくようになる。
夫が捕ってきた魚を、妻が売るという昔からの流れは、今も受け継がれている。海人ひとすじの男たちがいるように、商売ひとすじの女たちがいる。
公設市場でさしみ店を経営しているお母さんたちは、たくましく、生き生きした人たちである。話していると、お母さんたちの雰囲気に乗せられて、力が湧いてくるような感覚が心地いい。
公設市場には、マグロ・イラブチ・ツノマン・白イカ・セイイカ・クブシミ・タコ・シャコ貝・タカセ貝など、ほかにもたくさんの八重山の海の幸が集まってくる。
「昔は誰もが市場に買い物しにきたけど、最近はスーパーができて、若い人たちが市場にこなくなっているさあ」という話を聞くと、時代の流れといえばそれまでだが、僕たちは何かもったいないことをしているような気がする。新鮮な魚介類に触れることが減り、お母さんたちの会話や、市場独特の雰囲気を感じることがなくなった。
さしみ店を経営して40年余という、池田さしみ店の池田シゲさんは、「夫婦での共同作業だから、楽しかったことの方が多かった。お父さんが大漁してきたときは、ボーナスが出たようなものだったよ。」現在は、お嫁さんの恵子さんと一緒に、息子たちが捕ってきた魚を売りさばいている。
サダコ鮮魚店を経営する玉城貞子さんは、結婚するまでさしみ屋とは関係もなかったという。「まったく知らないところから始めて、最初は大変だったけど、5名の子供をちゃんと学校をだすことができたし、今はやってよかった」と、話す貞子さんが誇らしかった。
漁業は、さしみ店を営むお母さんたちにも支えられて、男たちは今日も海をあるき、消費者である我々は、庶民の味としての新鮮な魚介類を、今日も食べることができるのである。
ハーリーだけは、負きららん
八重山ガイドセレクト特集「海人ひとすじ」 昔のハーリーの日の写真で、後ろに優勝旗が見えるので、勝った記念の写真だと思われる。はっきりとした年代は分からないが、新川一組の旗(今はそういう区分ではない)などから30年近く前のものらしいと聞いた。
片手に祝杯のビールを持った男たちの勇ましいこと。勝利を願って祈り踊った女たちのアッパリシャイこと。今も昔も海に生きる人たちの顔は、素晴らしく輝いている。後ろに見える煙突は、石垣にたくさんあったカツオ工場のものである。この当時のハーリーは、今と違ってハーリーヤーが、年ごとに持ち回りのようにあって、ハーリーの日が近づいてくると、その家に長老たちから青年たちまで集まってきて賑やかだったという。今年のハーリーから東1組、東2組、中組西組合同の3組に分かれ、御願バーリー、転覆ハーリー、上がりバーリーがおこなわれた。航海安全と豊漁祈願のハーリーは、海人たちの生活の一部であり、常に海を敬い感謝している男たち女たちの海神への祈りの場である。
いつの時代になろうとも、八重山の海は永遠の美しさを持った豊饒の海であって欲しい。
370日の親子船~名嘉正雄・正直さん親子~
八重山ガイドセレクト特集「海人ひとすじ」小学校を卒業してから海をあるいている
「うちのお父さんが海人だったから、海人になるのが当たり前だった。多分、その上の代も海をあるいていたんじゃないかなあ」
名嘉正雄さんは、小学校を卒業するとすぐに父親と海をあるきはじめた。25歳で独立し、真面目な性格と、台風や海がしけて漁ができないとき以外は休まない。 情熱をもった正雄さんは、模範青年として沖縄県から表彰された、海の男の中の男である。
「ナオーが来てからは、もう楽さー」
59歳になった正雄さんも、一昨年、腰痛を煩い2カ月も海に出られないことがあった。「一人ではもう無理だなあ。ナオーとやるようになって、腰もどこも痛くないさあ」と正雄さんはうれしそうに笑う。
ナオーこと長男の正直さんは、去年の10月に東京から戻り、父親を手伝い漁にでている。
「中学の時から、夏休みは海に行ってたけど、本当に海人になるとは、あんまり考えてなかった」
八重高で野球部のキャプテンだった正直さんは、親父ゆずりの真面目な男である。
「小さなころから、海は好きではあったさあ。だけど、海をあるくという話はなかったさあ。東京から帰って来てからがよ、海あるくような話がしているみたいさ」
正雄さんは照れたように、そしてうれしそうに笑った。息子と海へ行くことを喜ぶ父と、父の偉大な背中を見て育った息子。父と同じ海をあるきはじめた息子は、西組(※)の一番の若手である。
1年370日、海をあるく
正雄さんの一日は、朝5時に起きるとこから始まる。準備して、7時ごろ漁にでる。夏はカゴアミ漁(ティールアミ)、冬は定置網漁。(マサアミ)カゴアミ漁は、昔からの様々なポイントに仕掛けのカゴを沈めておき、カゴに入って出られなくなった魚を、突いてとる。正雄さんは、船に取り付けられたタンクから海中に送られたエアーを使い、約5分水深10~20mのところにあるカゴの中の魚を突いてあがってくる。このような仕掛けのカゴが、約60のポイントにあり、一日に約30のカゴをまわる。そして夏は4時頃、冬は3時頃かえってくる。
夜は毎日飲むんですか?と聞くと、「酒なあ、いや、飲まんよう」正雄さんは酒もタバコもやらないという。
「お父さんがのまないから、長男のナオーがのむさあ。でーじしてるよ」
そばで聞いていた、酒もタバコもやる正直さんが恥ずかしそうにしていた。
「正雄おじーは、1年370日海にいく人さあ。正雄おじーが海にいかなかったら、ほかの人もいかないよう」「あの人は、海人の見本みたいな人だよ」
ほかの海人に、正雄さんのことを聞くと、そう話してくれた。酒もタバコもしない正雄さんは、健康そのもの。台風やしけのとき以外は海へ行き、漁に出られないときは、網や道具の手入れをする。
そんな父と、海をあるきはじめた正直さんは、どんな海人に成長していくだろうか。高校のときより逞しくなった顔が、正雄さんのような陽にやかれ、潮風をうけ、海からの力をもらい、歳を重ねるごとに、喜びを重ねるごと刻まれていった皺のある海人の顔になるのだろう。親子船は今日も、八重山の海を風をきって走っている。
魚を追いかけてゆく男たち~マグロ延縄漁~
八重山ガイドセレクト特集「海人ひとすじ」 マグロを追いかけて約1週間~2週間、船の上で生活し漁をする男たちがいる。
マグロ延縄漁は、ここ数年マグロ船の隻数が増えたことで、水揚げ高も増加している。(平成6年・321、867kg→平成8年・561、617kg)
マグロ延縄漁は、1年を通しておこなわれる。マグロ船には3~4人が乗り込み、1週間~2週間分のえさを積み、本マグロやキハダマグロなどを追い漁を続け、台風などの天候の悪化や、えさがなくなったり、マグロのとれ具合によって帰港する。南は北緯18度ぐらいまで行くこともあるという。また西は台湾との領海問題で線引きがはっきりせず、あまり目立って刺激しないようにしているという。
船の上では、朝、ナワを入れるスタート時間が決まっていて(だいたい6時頃)、その後に食事をとり、休憩してから昼2、3時頃からナワをあげ始める。ナワは30マイル(約48km)あり、引きあげ終わるのが夜中の12時頃、マグロがたくさんかかっていたり、ナワがきれたりなどのトラブルがあると余計に時間がかかり深夜2、3時をまわるという。どんなに遅く終わろうと、朝のスタート時間にはナワを入れる。
捕ったマグロは八重山漁協に水揚げされ、那覇や本土に送られる。それ以外のマグロは、漁協でセリがおこなわれ消費者の食卓に並ぶ。
マグロ船にはGPS(衛星からの電波によって、現在地を正確に把握するもの)などの最新の設備が搭載されているが、海という大自然は何があるか分からない。そんな大自然の海を、生き抜いていく男たちのもたらす恵みは、海の神からの送りものかもしれない。
海人にみる家族のかたち
八重山ガイドセレクト特集「海人ひとすじ」 父は海へ出て魚を捕り、母は家計を取り仕切り子供たちを育て、家庭は築かれていく。海人の家には様々なかたちがあるが、海に関わり、海に感謝するという生き方は、一緒なのかもしれない。
お母さんは縁の下の力持ち
「お父さんが捕ってきた魚は、1日でさばいたよ」と、なみさと鮮魚店を経営する、並里清子さんが懐かしそうに笑って話してくれた。夫の並里長信さんは、若いころから海をあるき、昭和45年頃に大分から1000ドルで購入した定置網は、石垣で第1号だったという。「昔は、サバニいっぱいに魚を捕ってきたよ。あんなに魚が捕れたからなあ」
長信さんは今は現役を引退しているが、海人ひとすじに生きてきた男の匂いがある。
清子さんの実家も海人の家で「たまたま好きになった人が、海人だった。自然の流れじゃないかねえ。」
長信さんが魚を捕り、その魚を清子さんが売りさばく。二人三脚で築きあげた家庭に育った子供たちは、親の姿を見て幼い頃から、海というものに触れていく。息子の学さんは長信さんの後を継ぎ、第一長清丸でマグロ延縄漁をしている。
「中学の頃から休みは、オヤジについて海にいっていた。学校はさぼったことはあるけど、海にいくのは…」と、学さんは笑った。
子供たちを立派に成長させた清子さんは、「中学を卒業して、この商売をやると決めてから、病気もしたことないし、やめたいと思ったこともない」というほど、根っからの商売人である。
てんぷらを始めたことで、売れ残りを無くしたり、惣菜や海の幸弁当など、生産・加工・販売を柱にした海からの恵み魚を主体としたお店を切り盛りしている。
力とやる気のあるお母さんがいる海人の家には、いつも大漁船が帰って来るのだろう。
家族、兄弟の力の結晶
海鮮居酒屋「魚礁(パヤオ)」を経営している、名嘉晃広さんの家も海人一家である。長男の全正さんは、第一善幸丸でマグロ延縄漁をやり、三男の秀三さんは、第五善幸丸で一本釣漁をしている。二人が捕ってきた魚を、四男の晃広さんが料理する。
現役を引退したが、お父さんの名嘉善孝さんも最近まで海をあるき、お母さんのユキさんも昔はさしみ店を営んでいた。晃広さんと「パヤオ」を経営する、妻の文恵さんの実家も、海人の家である。
海から恵みをもらい、その素材の味をさらに引き出し、お客さんがその恵みをありがたく食べる。当たり前のことが、当たり前のように完結している。
「パヤオ」では、新鮮な刺身はもちろん、近海魚の煮付け・から揚げ・塩焼き、そしてイカスミ料理にスミ酒など、八重山の海の幸が豊富に揃っている。
家族、兄弟の力が結集した「パヤオ」というかたちは、今日もたくさんの人たちの心を楽しませてくれる。