佐久川親子

 昨年、商工野球部の主将を務めた佐久川直浩さん。部員が2名になったときも野球部に在籍し、部の存続を守ったという話は有名。また父・浩敏さんは商工1期生で初代野球部キャプテン。彼らが野球とともに歩んできた人生を紹介する。

 佐久川浩敏さんは1951年に与那国島で生まれ、両親の仕事の都合などもあって幼いころに石垣島に引っ越してきた。登野城小学校を経て石垣第二中学校でも第1期生として卒業し、創立されたばかりの商工電気科に進学した。野球は昔からやっていたようで伊志嶺監督とは昔から顔見知りの関係でもあった。そして創立とともにできた野球部に入部し初代キャプテンとなった。「当時の商工はできたばっかりでグラウンドには牛がいて、練習する前には石拾いだった」と直浩さんはお父さんから聞かされたという。


1990年に奈良市で行われた高松宮賜杯キリンドラフトトーナンメントに出場した石垣全日空チーム

時代に興味を持った料理を学ぶためアメリカへ渡ろうとしたが、一身上の都合により断念。県外に渡りさまざまな職を体験するが、調理師となり島へ戻ってきた。島では全日空ホテルで副料理長、ホテル南西では総料理長を務めるまでになった。そして8年前に4号線沿いに『ごちそう酒場じんじん』をオープンさせる。島素材を使った創作料理を食べさせてくれる店として人気がある。
 石垣島は日本で一番草野球が盛んなところと言われるように、この人口約47000人の島に70~80のチームがある。浩敏さんも職域の全日空チームに所属し監督兼キャッチャーとしてチームを牽引した。浩敏さんが所属していた時の全日空は勝ち進んで県外での大会に出場したこともあった。

 1987年に直浩さんが生まれる。小さいころから浩敏さんの草野球に連れられていったこともあり、小学校3年生のときに少年野球チーム・新川オリオンズに入部した。しかしチームに馴染めなかったこともありわずか1週間でやめた。小学校5年生のときにバスケ部に所属し、石垣中学校に入学すると同時に野球部に入部した。「小学校の時はチームに馴染めずやめましたが、やっぱり野球が好きということもあり、友だちの誘いもあって入部しました」と話す直浩さん。
 小学校からの経験者が多いなか素人同然の直浩さんに浩敏さんは「お前はみんなと一緒にやっていたのじゃいつまでたってもみんなとの差は縮まらない。みんなの倍練習やれ」と言った。中学校から本格的に野球を始めた直浩さんにとって野球を続けられたのは父の言葉と砂川洋八さんの存在が大きい。同じ野球部に所属していた砂川さんは直浩さんが野球馬鹿と称するくらいの野球好き。砂川さんの家にはティーバッティングをできる環境があり、部活の練習が終わると砂川さんの家へ行きバットを振り続けた。「彼の親も快く引き受けてくれて、練習が終わるとご飯を食べさせてもらったこともありました」と話す直浩さん。
 2003年に直浩さんは浩敏さんと同じ商工へ進学する。同じ年に伊志嶺監督が石垣市の派遣事業で商工の監督になった。野球部に入部した直浩さんは、そこで初めて伊志嶺監督と出会うことになる。監督は初対面のとき直浩さんの顔を見るなり開口一番「お前、石みたいな顔だなぁ」。監督は千葉経大戦で崩れた大嶺祐太くんに対して「死んだマグロの目をしている」、智辯戦で大嶺くんの表情について聞かれて「社長の目をしている(周囲がよく見えているの意)」と言うなど独特の表現方法が巷で話題になっている。しかし中学卒業したての直浩さんにとって監督の第一声には不満があったようだ。「噂で聞いていたけど、最初は『なにば? こいつ』とちょっとイラっときました」と監督の第一印象を話す。
 そんな伊志嶺監督と歩みだした商工野球部だが、周知の通り厳しい練習に耐えかねた部員が1人また1人とやめていった。そして夏の大会が終わったあたりから部員は平良和真さんと2人だけになった。その時の気持ちを直浩さんは「八島マリンズを全国優勝、八重山ポニーズを世界3位と導いてきた監督だけに伊志嶺監督の元で野球をやれば自分もうまくなれると思ってきました。でも2人だけになったときは部活もなくなりもうダメだと思いました」と話す。試合ができないため、50mダッシュや長い竹竿を振ったりと基礎練習が延々と続いたが、監督は部員2人でも練習スタイルは変えずオレ流を貫き通した。


2005年度高校野球優秀部員として表彰された直浩さん

 年が明けた2004年1月直浩さんはキャプテンに任命される。監督の第一印象が悪かった直浩さんだが3人で練習してきたことによって、より監督との関係も近くなった。そして新入生が入ってきたころには伊志嶺吉盛という人間、監督が言い続けてきた「2人でも甲子園へ行く」という言葉の意味も理解できるようになっていた。新入生が入学したことによって試合ができるようになった。同時にキャプテンとして監督の意図を説明するなど常に監督と新入生たちの間に入りチームをまとめていった。全員がやめると言った騒動のときも当時野球部長だった平川先生と話し合いをもつなどキャプテンとしてチームにとって必要な存在になっていた。そんな紆余曲折を乗り越えながら3年生最後の夏がやってきた。2年生もモチベーションが上がってきていたが宮古高校に負けて直浩さんの夏は終わった。
 引退後も野球部の動向は気になり、学校の廊下で後輩とすれ違うたびに近況を聞いていた。また後輩から近況を報告されることもあった。そんな中2005年の九州大会で後輩たちが準優勝し甲子園センバツ大会出場が決定的となった。甲子園への選出が有力となる九州大会の準々決勝で大分明豊に勝つと授業中にもかかわらずクラスメイトから胴上げをされた。準決勝の宮崎延岡学園戦は体育館で、2006年1月31日のセンバツ出場決定時にはクラスメイトといたところを後輩に引っ張り出され胴上げされた。「夏の大会の最後にも胴上げされて3年生の時だけで4回も胴上げされました。何回やっても気持ちいいですよ」と話す直浩さん。廃部の危機を救ったとして県高野連から2005年度高校野球優秀部員賞を受賞し、センバツ大会時には学校が派遣する応援団として念願の甲子園で後輩たちを応援した。


センバツ時に応援団として参加した直浩さん

 直浩さんは卒業後、市役所の臨時職員として島に残り、5月からは父の居酒屋の厨房に入り手伝っていた。そして7月16日、商工は県大会で中部商を破って優勝し夏の甲子園の出場切符をつかんだ。郡内が春夏連続甲子園出場に沸いていた開会式の8月6日、突然の訃報が入った。かねてより闘病中だった浩敏さんが亡くなったのだった。 浩敏さんは2年前に上咽頭癌を患っていた。手術は無事成功したが1年前に再発、那覇で入院していたが本人の希望により石垣へ戻ってきた。直浩さんは6月に那覇の病院へ呼ばれたときに末期であることを知らされた。直浩さんが野球をやるのも、市役所に就職したのも、自分のお店を手伝ったのも一番喜んでいたのは浩敏さんだったと直浩さんは後に聞いた
 8月8日千葉経大戦で商工は劇的な逆転勝利をあげた。9回ツーアウトランナーなしからの逆転劇は高校時代の直浩さんの野球人生を象徴しているようだった。そして初代キャプテンの浩敏さんへの弔いの1勝となった。

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