島を出る子どもたちに伝えておきたいこと

3月の卒業シーズンをむかえ、進学・就職をする為に生り島を離れる子どもたち。石垣島へ、また沖縄本島や県外へ、夢と希望を持って旅立ってゆく彼らに伝えておきたいメッセージ。島で充実した生き方を送っている人生の先輩たちに語ってもらった。

「魅力ある故郷を知ってほしい」 グラフィックデザイナー 本若博次さん(50)

 「雨に追いかけられ、雨と駆けっこした経験が忘れられないですね」グラフィックデザイナーの本若博次さん自身の、故郷の原風景だ。
 デザイナー歴30年の本若博次さんは、今、石垣で日本野鳥の会八重山支部長を2003年7月から担っている。彼は、野鳥や自然保護にこだわる絵描きであり、プロのグラフィックデザイナーであり、プロのカメラマンでもある。
 石垣島大浜出身で、高校を卒業後、島を出て専門学校でデザインを学んだ。実は高校時代からデザインの腕を磨き、懸賞にも応募して腕を試していた。人知れず通信教育で3年間デザインを学んだ努力の人でもある。高校卒業で島を離れて本土にいくと、すでにデザイナーを志す人に名前が知られていた。通信教育で彼の受賞作品が知られていたからだ。デザイン学校卒業後は、プロのグラフィックデザイナーとして活躍。精力的に個展を開催。多いときには年に4度も個展を開いたという。4年後には、デザイナー学校の臨時講師になり、のちに常勤講師になったが、個展への取り組みは続いた。尾張そして三河と、足掛け30年、愛知県に住んでいた。「愛知県が長いと、石垣標準語が、おいつかない」と笑いながら語る。
 当時は、グラフィックデザイナーなる言葉がハシリの時代。大都市で認められても、まだ地方都市では印刷屋と同じにしか見られない、つらい業種だ。グラフィックデザインが海のものとも、山のものともわからない時代だったから、講師でありながらも、そこに安住せず、プロとして個展を開き続ける姿勢を貫く。「今から15年前に、名古屋でデザイン博覧会があり、あれから名古屋のデザインが広く認められるようになりました」。それまで東京集中型だったが、あれから様子が変わったと、本若さんは言う。
 「僕は愛知で自然保護にこだわっていました。野鳥の観察が好きだった」 しかし、彼は愛知での磐石な生活基盤を捨てて、石垣島に戻った。きっかけは親の病気ではあったが、彼は八重山のすばらしさに、驚いてしまい、島に帰ってくることにしたという。島にもどって、島の魅力に心打たれたからだった。多彩な野鳥がこの八重山を訪れることの価値だけではない。その鳥たちの色彩、美しさに魅了された。どんどん、八重山の野鳥に惹かれていった。
 さて、本若さんの仕事は本土からのデザインの仕事がメイン。そこでのモチーフは、野鳥であり、八重山である。昔も現在も野鳥観察に余念がない。
 本若さんは言う。「昔は、海岸の砂が真っ白で、あまりに眩しくて、眼があけられないぐらいだった。こういう風景は、まだ八重山には残っています。島を離れる子どもたちに伝えたいのは、八重山の野鳥、風景など、魅力ある故郷を知ってほしい。そして、学んでほしい。いつかは、島にもどって島のことを守ってもらいたい。育った島に恩返しをすることは、責務でもあると思う」
 島育ちであればこそ見えるものがあり、そこから生まれる愛情が、どこの島にも、大事だという。

「同じ人生を歩むのなら、生り島で暮らすのがいい」スオウの木の会 登野盛真吉さん(57)登野盛範子さん(50)

 日本最南端の共同作業所“スオウの木”。その名の由来は“しっかりと地に根を張った板根は組織そのもの、太い幹はたくましく生きていく心身障害児(者)の不屈の精神を表している”という。海の森・マングローブのなかでひときわ高く枝を伸ばし、そしてがっちりと地に根をはるスオウの木の勇姿は、まさに島で共に生きる者たちの素顔といってよい。「ここへ来るとパワーをもらえるんです」ボランティアスタッフのひとりが嬉しそうにつぶやく。スオウの木の会発足から11年。会代表の登野盛範子さんと夫の真吉さんは、“みなの知恵をかりながら”地域に根を張り、“スオウの木”の自立をしなやかに模索し続けている。「私たちは、どんな障害を持っていても、地域社会の中であたりまえに暮らしていきたいと願っています。障害を持つ人も、持たない人も、共に暮らせる社会をめざし、本当の意味での共育と共働による豊かな社会作りをと思っています」。障害を持つ子どもが生り島で暮らせるようにとの願いから共同作業所への開所にいたる道を振り返り、範子さんは語った。「私たちの作業所は、会員とボランティアスタッフで1年かけて作ったんですよ」。業者に頼ることなく自分たちの力で完成した作業所は、1番の誇りだという。夏の酷暑のなかでの作業にもめげることなく、各地域から集まったメンバーは話し合いを重ね、作業所の将来について構想を描いていった。共に仕事をするなかでいっそうの親睦を深めることができたことは、何よりの報酬となる。「忙しいなかでも手をかしてくれる。なかなかできることではないよ」。ボランティアスタッフや地域住民のひたむきな援助に真吉さんも感謝の想いはつきない。地域の交流は、現在も“スオウの木の会”の重要な根っことなっている。
 地域に開かれた共同作業所。それは、まさに島の暮らしを凝縮している。
 畑仕事の合間に貝殻を利用した鉢植えやお土産用の挿し木を作り、それぞれが得意な手仕事にいそしむ。島の恵みをいただいて、皆でゆんたくし、互いに励まし合いながら生きる日々。「どんな人間にも、教えられるものがある。それをいかにひきだしていくかが大事だ」と真吉さんは語る。「同じ人生を歩むのなら、生り島で暮らすのがいい」とも。島を、人を愛するおふたりのまなざしは、人生を切り開いていく者にスオウの木のごとく不屈の精神をもたらしている。

「手の届く範囲の環境、周りの人たちを大切に」 エコツアーふくみみ代表 大堀健司さん(38)

 私は人情溢れる東京の古い町で生まれ育ちました。大学を受験する時に、生まれた場所を出て違う世界を見たいという気持ちもあり、琉球大学を受験。それから6年間沖縄での生活を満喫し大学を卒業。再び新たな世界で経験を積もうと、沖縄を出て東京の会社に就職。その後、約7年間は東京の企業でバリバリ(?)働きましたが、結婚・出産を機に、生活を見直して心機一転石垣島に移住。現在は夫婦でエコツアーと環境教育事業を営んでいます。
 今、石垣島に腰を落ち着け暮らしていて思うこと、それは今の自分を支え、またこれまで支えてきてくれたのは、自分が子どもの頃に暮らした東京での原風景であるということです。自然は少なかったけれど、狭い路地の隙間を走ったり、庭木にいる小さな虫を捕まえたり…そんな子どもの頃の体験が今の自分につながっているのだと思うのです。
 これから島を出て行く皆さんは、この先いろいろな場所で暮らしていくことでしょう。でも、暮らす場所は、私はそれほど重要ではない気がしています。どこにいても、自分にできる仕事をしながら、自分の手の届く範囲の環境、周りの人たちを大切にすることが、一番大事だと思えるからです。この先様々な困難にも出会うでしょう。そんな時、皆さんの育った石垣島の青い空、満天の星空、海にかかる虹、近所のおじーおばー、友だちと大笑いしたことが、全てを解決してくれるはずです。そのことを忘れずにいて欲しいと思います。

「故郷は何ものにも変えられない」 沖縄県立八重山農林高等学校 教諭 福仲用治さん(50)

 日本最南端の農業高校である八重山農林高等学校。その畜産科で高校生と接する日々を送っている。与那国島の中学校を卒業して島を出てから30年あまり。若い頃には外国に行ってみたいと考えたこともあるが八重山を離れたことはない。石垣島に出てくる子どもたちの面倒を見てくれと与那国の先輩たちから頼まれるうちに島を離れられなくなったという。「でもいつかは与那国島に帰りたいと思う。親や故郷は何ものにも変えられないからね」。
 畜産科の実習では豚や牛の飼育管理を中心に教えている。出産から食肉になるまでの過程を通して生命の大切さや慈しみの心を教えることができる、やりがいのある仕事だという。また授業以外でも生徒との触れ合いを楽しんでいる。1月の石垣島マラソン、2月のやまねこマラソンでも生徒たちと一緒に走った。豊年祭・結願祭といった伝統行事や郷土芸能など他の地域には無い素晴らしい島の文化を後世に伝えていきたいとも考えている。
 今まで数多くの教え子を見送った。島を出て行く子どもたちも成人式や生り年の時は島に帰ってきてほしいという。「たまに教え子たちが生り年で顔を見せに来てくれたりするんですよ。学校生活は長い人生の中のわずか3年の付き合い。だけど付き合おうと思ったら一生付き合っていくこともできる。だから僕はみんなの事は死ぬまで忘れないよ」と笑顔で語ってくれた。

「夢を持ち、目標をめざして頑張れ」 八重山商工高校野球部 監督 伊志嶺吉盛さん(51)

 2003年4月9日午後5時、八重山商工高校グラウンドで、野球部員および支援者らを前に伊志嶺吉盛監督が言った。
 「来年の秋には、結果を出すと思います」
 八重山商工高校野球部の伊志嶺監督就任の対面式の時である。ご存知の通り、結果は秋を待たずに夏に出た。県の新人戦の初優勝は、まさに史上初となる優勝旗の渡海であった。就任後、一時は部員不足で大会に出られなくなっても、残る生徒はついてきた。2004年4月、一年生らが入部し、同年8月、前出の県高校野球新人戦の優勝である。春季大会はベスト4で敗れたが、21世紀枠の県推薦に入った。九州枠では漏れたが、甲子園一歩手前まで、一気に迫ったのである。
 伊志嶺さんもまた、少年があこがれるプロ選手を夢見て、小学・中学・高校と野球に没頭。当然、甲子園を目指した高校時代だったが、それはかなえられなかった。
 しかし、伊志嶺さんは、沖縄大学野球部時代に、準硬球の大会で全国優勝を2度果たしている。準硬球での大会とはいえ、沖縄の大学野球が全国制覇する初めてであり二連覇は、まさしく快挙であった。
 彼は大学3年になって、将来は島にもどって指導者になることを決意。後進に、夢を託す。もちろん、自分が甲子園にいけなかったことを思えば、まず、八重山からいける環境づくりを急務と考えた。
 「現役時代に周囲で何度も聞いたのが、離島のハンデです。これが、目前にしっかり壁として実感をもって感じられたのは、指導者を志してからですね」 ハンデの中身の代表は、指導者の存在、情報の少なさ、練習相手が少ないこと。これら離島の宿命ともいえるハンデに挑戦することになる。
 まず島に戻ると、勝つ野球を島に伝える。ただ野球をすることと、勝つ野球をすることは違うことを、伝えたかったという。かくして、伊志嶺さんは平成6年から小学生の球児育成に取り組むことになった。練習は厳しかったという。
 あれから10年。今がある。
 「大事なことは、目標をもって意識を高く持って取り組むこと。高い意識が新たな局面をもたらしてくれる。目標をもって、その目標の達成には何が必要かを、絶えず考える。そして、行動して結果を見ること。またその際、感謝の気持ちを忘れないこと」 こういう氏は、「これは、野球に限ったことではありません」と付け加えた。
 伊志嶺さんは言う。
 「島を出る子どもたちには、様々な分野で、自分の夢を目指して欲しい。そして、たとえやぶれても、気にせず島に帰ってみるのもいいかもしれない。やがてこの島で、君だけにしかできないことが、見つかるかもしれない。まだまだ、この島自身が、可能性の塊だと、私は信じています」

「魂を磨き、豊かな心で生き抜いて」 竹富島喜宝院 住職 上勢頭同子さん

 この世でたった一人しかいない私を産んでくれた母の慈恩、父の慈恩、ここまで育ててくれた地域の人々のご恩。見渡す限り全てがご恩の山。
 今、親元を離れ、生まれ育ったこの島を後にする日が迫って来ました。
 学校では、あまり好きでもない掃除を自分の汚れを落とす修行だと思い、また転校生とのわだかまりもあって、環境の変化にとまどいながらもそれに対応する精神も磨かれて、今では出合いの喜びと友情の絆も強く結ばれたことでしょう。いつの間にか竹富魂の「うつぐみ」が皆の心に生まれていたのです。
 島ではいろいろな体験があり、特に種子取祭での奉納では、神への畏敬の念と緊張で身震いするほどの厳しさだったことでしょう。それを成し遂げた後の充実感は、きっと大きな自信につながっていますよね。今の世界は人間の物欲では決して幸せにはなりません。魂を磨き、豊かな心で生き抜いてこそ成長もできるのです。
 ふるさとをこよなく愛しながらも島を出て行くあなたたち。どこに住んでいようとふるさとの祭りを刷り込まれたあなたたちが、いつか必ず帰って来れる様な、そんな竹富島を守っていることを誓います。 合掌
 心の先生として・釈尼同香

「小さな島から大きくはばたけ」  小浜島製糖工場 工務課長 大久喜敬さん(52)

 小浜島で生まれ育った、大久喜敬さん。通称「インキーおじー」。
 「小浜島? 大好きだよ。島を離れたのは、石垣へ高校3年間、卒業後車の免許取るために沖縄本島に行ったぐらいかな。行ってすぐポール(豊年祭)だから帰って来たよ。で、また、ソーラ(お盆)、そうしているうちに、シツ(結願祭)、これは行ったり来たりできないな。よし、島に落ち着こう」と決め、「それ以来、ずっと島さ」「とにかくキンザル(行事)が好きでよー」と話すインキーおじーは、若い頃から公民館の役員(理事、幹事、部落会長)を何年も務め、行事ごとの願い事や、お供え物等に自然に興味がわき、身に付き、だから、人一倍行事への想いが強くなったのだろうと思われる。「ぼくはよ、中学生の頃からピー(横笛)吹いて大人と一緒にニムチャー(お盆)も参加したし、公民館の役員も、ちっちゃい島だから何回もやって難儀だったよ。でも、そういうこともあったからこそ今、こうして島で大好きなキンザルを思う存分楽しんでいるし、もちろん、島ではなくてはならない製糖工場に採用されたことも、小浜で生活できるってわけさー」
 妻、長男(独身)、長女家族5人、85歳の母親とくらす今、「とっても幸せですよー」と笑顔たっぷり話してくれたインキーおじー。
 最後に、「高校進学をきっかけに一度は必ず島を離れることになるみんな、島を離れて島のよさがわかるよ。もちろん、大きな都会に目を向けることも大切。また、島でのキンザル、公民館行事を島ピトゥとしてこなし、守っていく事の大切さも気付いてくれ。自然と文化の豊かな小浜島、これからもっともっといろんな意味で発展していく可能性をもった小浜島に生まれ、育ったことを誇りに、どこで生きようとも、帰れる島、待っている島、迎えてくれる島がここにあることを心にとめ、どんどんいろんなことに挑戦し、大きく大きくはばたいてほしい。小さな島から大きくはばたけ!」

「人との出会いを大切に」 八重山漁協貝類養殖生産部会会長 池田元さん(57)

 池田元さんは、長年NHK農林水産通信員をやっている。軽快な語り口をもつウミンチュとして、ハーリーの会場では名アナウンサーでもある。去る1月13日におこなわれた第10回県青壮年・女性漁業者交流大会で最優秀賞を受賞して、3月7日の全国大会に県代表として出場が決まっている。この大会は、漁業者が沿岸漁業への振興を図る人々と意見を交換することで、漁業の将来を展望し、啓発につなげようというもの。いわば、全国で活動する漁業者が、取り組む実践と将来に向けた課題を披露する場。漁業の現場で今何が大事であるかが、この会場で発表されるものである。
 沖縄県の代表として参加する池田さんに、島を離れる若者へ伝えたい言葉をとお話を聞いた。
 池田さんは、実は若い頃から海で働いたことで、海が嫌いだったという。そして成人し、島を出て東京で働いた彼は、運送の仕事で全国を走った。現在の池田さんがあるのは、運命の出会いがあったからだという。
 ある日のことだ。場所は岩手県釜石の漁港。仕事で来た漁港で、老夫婦が操る船を見つけた。何気なく興味本位に聞いた。「おじいさん、これは何?」 「ワカメの養殖だ」という。「これで年間いくらになります?」と聞けば「400万円」と返ってきた。400万円と聞いて驚いた。当時の400万円は、今では2000万円の価値がある。それは、池田さんの意識を変えた。「島に帰って、漁業をやろう」。新たな時代がやってきていたのだ。本土でできるのだから、八重山でできないはずはない。
 彼はいう。「出会いを大事にしなくてはいけない」 これは、彼が実感する言葉だという。「あの日、あの老夫婦に会わなければ、今の私はなかったと思う」そう思い起こす池田さんだ。最初、八重山で養殖をするといっても、技術もない、施設もない、ないないづくしだ。そこを、ひとり動き出した。35年前のことだという。それから20年たって、県水産試験場の場長、県水産業普及所が動き出し、そこで職員らとの出会いがあった。そして、石垣市の水産課の担当者との出会いも大きかったという。今、100基ある養殖施設の存在は、彼らの尽力がなかったらできなかったと断言する。出会いが大きかった。養殖のスタートは失敗の連続だったという。しかし、その失敗を成功に結びつけるものが、努力した経験の履歴だとも。
 島を離れる子どもたちにメッセージをと聞くと、池田さんは「島に何もないというのではなく、自分で生み出すことです。願い、行動すれば、必ず出会いが生まれます。この出会いを大事にする人は、きっと成就すると思う。島を出て、学ぶこと。目を大きく開けて、一生懸命生きること。そうすれば、必ず、はじまってくるものがあります。がんばってください」

「人に恵まれていれば、必ずいいことがある」 波照間製糖(株) 波照間事業所長 新城永佑さん(56)

 「昔は子どもたちには“偉い人”になってもらいたいと思ってたけど、偉い人ってのも色々あって、よく分からんさ。だから今はそんな事は思ってないねぇ」と語る新城永佑さん。
 新城さんは中学卒業後、島を離れ八重山農林高校に進学し、その後、石垣のパイン工場に就職した。「いつかは島に帰りたい」と思っていた。帰島したのは昭和四十七年、二十三歳の時。きっかけは、その前年にあった八重山の大干ばつで島を離れる人が増えたことだった。「他の人が島を出て北に行くなら、自分は南に戻ろう」。帰島後、現在の会社に入社。平成七年から所長を務めている。
 「石垣では色々な人間関係を作る事ができた。このことは一番の収穫で一生の財産。それが今の仕事にも生きていると思う。波照間の子どもたちはもう充分頑張っているから“島を出てもがんばれ”とは言わない。ただ、行った先で良い人間関係を作って欲しい。人に恵まれていれば必ずいいことがある。一生の宝を作って欲しい」と語る。「波照間は都会よりも住みやすいよ。自然があって、健全な暮らしができる。子どもたちもできればいつかは帰ってきてもらいたい。自分の好きな事を学び、技術を身につけて島に帰ってくれば仕事もあるよ。島にはまだない新しい分野に挑戦するという手もある。アイデアひとつで何でもできるさ! そのための協力はみんな惜しまないよ」 島を離れていく子どもたちの中には、島を振り返り、帰島する事を考える者もいるだろう。その時、たとえ“偉い人”になってなくても、協力してくれる人が、困った時に助けてくれる人が、島にはたくさんいるということを覚えておいて欲しい。

「夢は必ず叶う」 与那国町議会議員 小嶺博泉さん(33)

 与那国島を離れて遠く暮らす君たち、元気ですか?この春もまた若者たちが島を出ていきます。島は今、大きな決断をし、明るい未来へ向かって歩き始めました。しかし、その道のりは険しく、たやすい道ではありません。
 私が初めて教壇に立った時、君たちは中学生でした。その君たちも今は二十歳を過ぎ、みんなそれぞれ、夢を叶える場所でがんばって暮らしていることでしょう。あの時、想像もしなかったことが、この島では起こっています。自立への道を歩みだした今、苦しくて辛いことが多いのも事実です。頭を抱えて悩む日も少なくありません。そんな時、決まって思い出すのは君たちのことです。生まれ育った島から遠く離れ、夢を叶えるためにがんばっている君たちと、自立への道を選んで、もがき苦しんでいる島の姿が重なって見えます。正月に島に帰って来た君たちと話す機会がありましたね。そこでみんなが話していたことは「夢は必ず実現する」ということでした。慣れない土地で一人、辛く苦しいこともあるはずなのに、君たちの顔はとても幸せそうでした。与那国島もそうかも知れません。どうか忘れないでください。島の匂い、島の祭り、自分がいた時の島の風景を。何年に一度でもいいから島に帰って来てください。苦しい時は島の姿をみてください。与那国島も君たちのようにがんばっています。アイグハンキドゥ ドゥルヤビッカル(歩く足には泥がつく=結果は行動にともなう)
 夢は必ず叶う、がんばれ。

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