古文書にみる西表島の北岸を通る古見島北堅道

古文書にみる西表島の北岸を通る古見島北堅道

 西表島の古文書にある北堅道は、東部の古見村を起点に始まる。道は終点の祖納村にまで至り、その間に与那良、野原、平川、高那、鬚川、上原、浦内、干立の八ヶ所の村落が点在する。『宮古八重山両島絵図帳』『八重山島年来記』などをみれば、村落の創建、廃村は年代により異なるものの、確実に村が形成されていたことが分かる。
古見村の北側に後良川が流れ、そこに後良橋が架かる。琉球王府時代には大枝橋と呼ばれていた橋梁である。北堅道は、この大枝橋を渡ることからスタートを切る。橋の築造記念碑が後良川に入る手前の丘に建立されている。碑文は一部、摩滅しており、中段、後段は前良川の三離橋碑文とほぼ一致する。建立されたのは碑文から一七一五年(康熙五四)であることが分かる。碑文は『八重山島由来記』にもあるが、それは全くの別文である。
 古見村一帯は水田が広がるが、大枝橋付近もそうである。道は平野のある場所は平坦だが、山に近付くと様相が一変する。道は起伏に富んでおり、左手に山岳地帯が迫り、自然が豊かである。
 道は進むと登り坂となる。古見クイツィである。クイツィは越地と普通に表記される。八重山には大原越地、浦底越地、久場山越地などが数多くある。それは山越え道で人、馬が通れる程度の幅員しかなく、山地の地勢に沿って開かれているのが一般的である。越地は琉球王府時代の「親廻り」では役人は徒歩ではなく、駕籠に乗って往来した。人々はその様子を歌に託して表現した。八重山では文化遺産として今でも歌い継がれている。
 古見クイツィは県道・白浜-南風見線の東部にあったといわれる。古老の話によると、かつて石畳が敷設されていたという。しかし、戦後、オグデン道路を建設するために破壊された。上下しながらの古見クイツィだが、進むと視界が開ける。なだらかな山越えを終えると、由布島を眺望できる。平野に入ると眼前が広くなる。
 古見クイツィを越えると、最初の村落は与那良村である。村は古見間切のひとつの村として登場した。しかし、後に高那村に編入された。道は続く。野原、平川、高那、鬚川、上原、浦内、干立の村を通過しながら。だが、道は平坦ではない。 所によっては、山が海に迫っているため、海岸線を歩かねばならない。途中には大小さまざまな河川がある。その中で最大の難関は浦内川である。そして、祖納村に到着する。

竹富町役場 通事 孝作

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