第11回 筝曲工工四に生涯をかけた富島妙子

第11回 筝曲工工四に生涯をかけた富島妙子
第11回 筝曲工工四に生涯をかけた富島妙子

写真は、富島妙子『八重山古典民謡筝曲工工四』出版のときの記念写真である。1979年(昭和54)4月9日、南星写真館にて。このとき富島さん、80歳。生涯をかけた仕事の集大成を形にした最高のときであったにちがいない。
 それからおよそ2か月後の6月2日(土)には、石垣公民館で出版祝賀会が開かれた。そのときのテープが残っている。「御礼の言葉」で富島さんは、祝宴の開催に感謝の言葉を述べ、そして次のように続けている。
「私が八重山民謡の美しさに惹かれ、筝曲の世界でこれを再現、正しく伝承を果たしたいと念願を立て、琉球筝曲の研究のかたわら、石垣喜保先生より八重山民謡の伝承、ただそれのみに執念を燃やした日々でございました。光陰は矢のように流れ、いつしか54年が夢の間に過ぎ去ってしまいました。(略)八重山古典民謡の採譜の仕事はコツコツと続けていましたので、私の生きてきた証としてこの工工四は残さねばならぬと考え、周囲のご助力、ご激励をたまわりつつ、昭和41年、74曲を編集。さらに、今回、内容を訂正、100余曲を加えて工工四出版の運びに至った次第です」

 とても厳しい先生だった、と長久先生はおっしゃる。弟子はもちろん、工工四採譜のための協力者たちをも「アダースダ(叱り飛ばした)」という。
「お義母さんによ、ワア、あんじよ、マチヤたんがーすーねー琴やならぬ、銭ぬさんみんすーねー習い事やならぬ。今日や休み(あなた、こんなに店のことだけやっていると琴はできないよ、金の計算だけしていると習い事はできないよ。今日は休みなさい)と言ったらしいよ。あれだけ芸に厳しかったわけさ。だからあれだけのことができるさ」
 お義母さんというのは長久先生の奥さんアヤ子さんの母・宮良トミさんのこと。富島さんの直弟子である。出版祝賀会の「主催者あいさつ」は宮良さんがおこなっている。
「先生の芸に対する態度は厳しく熱心であり、その教えも本当に厳格で、お叱りを受けない者はございません。それほどまでに八重山民謡を愛しておられるわけでございます。これまでに先生から教師の免許を授けられた方が10人おりまして、その孫弟子さんまで入れますと、現在八重山だけでも百人の方が八重山古典民謡筝曲を学んでおります。(略)昭和38年ガリバン刷りで八重山古典民謡筝曲を世に問うておられ、昭和41年改訂版、今回は改改訂版ともいうべきもので、先生が生涯をかけて精魂を打ち込んでこられた総決算ともいうべきもので、実に105曲が収められ、私たち筝曲を習う者にとってはただ一つのしかも最高の楽典であり、こんな嬉しいことはありません。これはひとり筝曲界だけでなく、八重山古典民謡発展のために大変喜ばしいことであります。皆様とともに深い感謝と絶大な敬意をお贈りしたいと思います」

 琴ことをよく知らないが、この二つの「あいさつ」から『八重山古典民謡筝曲工工四』の完成がいかに重大なことであったかが知れる。37年のガリ刷り版は見ていないが、昭和41年版と54年版の序文(喜舎場永珣、森田孫栄)から富島妙子さんの足跡と業績を拾うと、おおよそ次のようなことであるらしい。
 富島さんは大正14年(1925)、27歳のときに志をもって那覇に出て、奥平幸英他3人の大家に琴を習った。そのうち「筝曲と三弦楽は不離一体の弦楽である事を覚り」城間恒有に琉球古典音楽を師事、そして昭和10年頃には那覇に「指南所」を設けて弟子をとるまでになった。喜舎場は「八重山人として那覇での教授は富島氏を以って始めとします」と書いている。
 昭和12、13年頃石垣島に一時帰省して石垣喜保から八重山古典民謡を習い、そこで琴の工工四発刊を決心して再び那覇へ。「さらに琉球筝曲の研鑽を積みながら八重山民謡節歌の採譜に腐心」、戦後昭和21年帰郷してから本格的に琴の工工四づくりに取り組んだ。
 昭和34年(1959)12月、辰巳会を結成、会長に就任。後継者の育成にもつとめた。喜舎場は「富島師範が他の音楽家と異なる点は、人は三味線か或は筝曲かの一通りしか知っていないのに、独り妙子女史は琉球古典音楽と同筝曲と八重山民謡音楽と同筝曲の四通りに精通していられる点である。かかる人物は琉球全体でこの妙子一人だと云はれている」と。
 富島さん以前に八重山民謡筝曲の工工四は完成しておらず、喜舎場永珣が大正5年に大川の宮良長智が工工四を編集しているところを見ているが、完成しなかった。森田孫栄は「八重山民謡の妖しい美しさに惹かれその虜となったひとりの優れた女性のすさまじい執念はいま凝縮され『八重山古典民謡筝曲工工四』として昇華されたのである」と書いた。

 長久先生も「ほんとに八重山の筝曲はこの人のおかげですよ」とおっしゃる。
「沖縄の三線の大先生なんかが富島先生の琴と合わせにわざわざ八重山まで来ましたよ。それぐらい一流ですよ。琴は三線の友というでしょ、先生は三線の師範でもあられたから、三線の音に合わせて琴の採譜ができたわけですよ。三線と琴の音が別々の音ではじまって、一緒に揃ってきて、また別れていく…、これが面白いさ。三線もやってないといい工工四はできないですよ」と。
 富島さんと長久先生の接点。初舞台・観音堂の200年祭のときに琴を弾いたのが富島さん、安伴先生が八重山を出る前に開いた演奏会の琴も富島さんだったというが、親しく交流するようになったのは、義理の母の宮良トミさんを通してだった。
「僕はいつもお義母さんの琴を持つ人だったさ。発表会のときは、沖縄にも、国立劇場にも、いつも一緒でした」と長久先生。愛弟子の娘婿がバリバリの三線奏者なら、富島さんにとっても長久先生は重宝先生であったに違いない(?駄洒落好きの長久先生なら笑って許してくれますよね)。
 長久先生は筝曲工工四採譜のための良き協力者となった。おそらく、長久先生が弾く三線に合わせて、富島さんが琴の音を拾っていくという作業が延々とおこなわれたのだろう。上の写真の金城善次さん、池宮城秀幸さんも三線の協力者である。女性の方々はお弟子さん。

「那覇ではね、苦労して機織りをして、儲けたジン(銭)をみんな稽古につぎ込んだって。ぴろーまやガジャンぬいっぱいうそーら(昼間は蚊がいっぱいいるでしょ)、蚊帳張って勉強していたって」。直接本人から聞いた話なのか、トミさんから聞いた話なのか、長久先生が感慨深そうに話す。
「頭がキレていたらしいね。沖縄の麒麟と言われていたらしい」。でも、と長久先生は言う。もっと積極的に生きたら、もっと世界は広がったのではないか。あれだけの才能のある人だったのだから。「舞台があんまり好きではなかった」という。そういえば、出版祝賀会のテープには、話し始める前に「あんまり高いところは…、下でしましょうか」という声が収まっている。
 八重山興業ホールで民謡大会が開かれた。沖縄歌「仲風」で出演した長久先生に富島さんが言った。「のーれ長久、あんじ目ぬ前んがぴーちかりて、出じぶさどぅある? 歌やよ、上手なるねーよ、何処からん聞きなきん(どうしたの長久。あんなに日にちが迫っても出たいの? 歌はね、上手になったら、どこからでも聞きにくる)」。
「ものすごい先生ではあるけどね、損しているさ」と長久先生。そして小声で寂しそうに「間に合うんて、ヌツ(命)ぬ」とおっしゃった。
 清貧であったという。『八重山古典民謡筝曲工工四』に、著作権は宮良トミに譲る旨の「委任状」のページがある。いろいろと世話をしてくれたトミさんへの富島さんの心遣いであったのだろう。
(敬称略・文責筆者)

八重山古典民謡保存会
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はいの 晄

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