《小浜節》は小浜島の豊かな自然とその恵みを歌う。《小浜節》を聞くと、大岳からの展望を思い描いてしまうのは何故だろう。
この歌は小浜与人・宮良永祝が在任中、彼と小浜島の新里加武多との交流から誕生した。東細崎で歌う新里の歌を聞きながら、永祝がその歌詞を琉歌体(八八八六音の歌形)に整えて改作したのが《小浜節》だという(喜舎場永珣説)。豊年祭歌の中には、永祝の詞を、新里が歌い上げたものが幾つかある。この中から《小浜節》や《あかまた節》が生まれ、それが八重山民謡として歌い継がれているようだ(嵩原繁説)。
《小浜節》《あかまた節》共に歌詞は琉歌体で、その詞群には両曲共通のものがある。歌詞の互換性が認められるのは、琉球古典音楽の影響もあろう。琉球古典曲の歌詞は琉歌体が主流で、同旋律にのせ数多くの琉歌が歌われるのである。
《小浜節》は『琉歌百控』(一八世紀末)に収載されているから、当時既に流布していた事だろう。それ以後の歌集では、ほとんどが「小浜てる島や果報ぬ島やりば 大岳ばこしやて 白浜前なし」の歌詞を第一節に配している。しかし、小浜島では「だんちよてよまりる 小浜てる島や 大岳ば後てぃ 白浜前なし」を第一節とする。黒島精耕は、このような異同の理由を、「うふだき」の解釈に注目し考察している。
「うふだき」は地理的に「大岳」だが、それを祖霊神の鎮座する「大嶽」とした時、豊穣を願う歌になるという。結句の「白浜前なし」も地理的な解釈だが、御嶽信仰を背景とすると、結句は「うやき前なし」が相応しいとする。そして、字宮良の小浜御嶽の歌の結句が「うやき前なし」である事から、伝承過程で異同が生じたとみている。
私達は《小浜節》から、島の景観のみならず、その精神文化も読みとらねばならない。ところが、近代の沖縄芝居「親んまー狂言」等で《小浜節》が別れの場面に用いられてから、しみじみ歌われる傾向もみられた。これは本来の曲想からかけ離れた表現といわざるをえない。
『琉歌全集』は《小浜節》を、「十五夜の名月、春ののどかな光景の歌など」と注記し、琉歌十首を収載する。そこには「親んまー狂言」の詞もみられるが、「十五夜照るお月 名に立ちゆるごとに 四方に照り渡る 影のきよらさ」、「十五夜照る月や いつもかにさらめ 眺めゆる無蔵と つれて行きゆさ」等、十五夜の場面を歌った歌詞がある。
世果報を歌うと同時に、夜空の天体を雄大に歌った世界も、《小浜節》の本領に近いのではないか。十五夜に限らず月や星は身近な自然であったに違いない。
沖縄最古の神歌集『おもろさうし』には、夜空に輝く星を、神女の衣装に喩えたオモロがある。また琉歌には、十五夜の供物「フチャギ」を夜空に描いた「月や真中に 星やあまこまに 餅に赤豆の つきやるごとさ」があるが、これには宇宙に空想の絵が広がっていく楽しさがある。明るい歌いぶりと、先のオモロに匹敵した大きさは、《小浜節》の曲想にも繋がりはしないか。
さて、小浜島の在来大豆「小浜豆」は戦後まで盛んに作られたが、外国産大豆の大量輸入、サトウキビ生産拡大等の影響で姿を消した。現在、新本光孝がその種子を譲り受けて復活栽培を始めている。また二〇一〇年の報道によると、小浜豆はスペースシャトルで宇宙に発ち、宇宙ステーション実験棟「きぼう」で保管され戻ってきた。大豆と宇宙を結ぶ発想は、意外にも《小浜節》の精神と響きあうような気がする。
《小浜節》には、「潮の満ち干きや月からど定みょうり 村のうきむきや はるの主から」の歌詞もある。内容も潮の干満と村の吉凶、月と「はるの主」が対応して解りやすい。また潮の干満という大らかなリズムの中にも、「シュ」の音に「潮」と「主」を掛けた技巧が潜むのも面白い。
世果報への願いが《小浜節》の主題だが、そこに時空の広がりも映してはいないか。また、近代に芝居の愁嘆場で用いられる事もあったが、月を愛でる琉歌の世界と結びつき、やがて十五夜の歌として定着していった道筋も考えられないかと思う。