第8回 阿佐谷の雪

第8回 阿佐谷の雪
第8回 阿佐谷の雪

寒い夜、阿佐谷の高架線沿いの屋台で太郎さんがガラスコップに入れた熱燗を出してくれた。

「これ、甘いですね」

島にいた頃、値段の高い日本酒は 飲めないのでいつも島酒、泡盛を飲んでいた僕は日本酒の味を全く知らない。太郎さんに「それは甘口ですよ」と言われて納得し、そのまま飲み続けた。 後から来た客が「これはみりん じゃないか!」と怒鳴り、太郎さんが「ごめん、ごめん、間違えた」と謝ったとき、僕はすでにコップ二杯を飲みほしていた。僕はみりんの味 さえ知らなかった。最終電車が頭の上を通り過ぎて、吹きさらしの屋台の背中がぐんと冷え、雪が降りだした。見るまに路地の黒いアスファル トは真っ白になり、街は静寂に包まれ、その静寂の中に雪は積もった。

雪が降る!

目の前に舞い降りる白い「もの」 と、「雪」という言葉が僕の頭の中でつながり、それが「雪が降っている」ことだと理解するまでにはすこし時間が掛かった。生まれて初めてみるこの超常現象 に、驚き、慄き、恐れ、体の芯が震えた、震えは体中に広がり、広がりはやがて恍惚となった。恍惚と路地に出て空を見上げ、降りてくる雪を 手に受けて、また空を見た。雪はとめどもなく降ってくる。積もった雪を手ですくい、それを額に当てた。雪は冷たかった。雪の上を転がって みた。雪は柔らかかった。仰向けに転がったまま空を見た。が、雪がどこから降ってくるかを見極めることは出来なかった。静かに降ってくる 白い神秘に包まれて、そのあまりの美しさに気が狂うのではないかという恐怖で、一瞬、気が狂った、と思った。でも、気が狂ったのはみりん を飲みすぎたからだと雪国の太郎さんが後で説明してくれた。

パリに大雪が降った。

アトリエの窓の外に吹き荒れる吹 雪を見ていたら体の芯が震えた。震えは恍惚となり、恍惚は手を通して筆に伝わった。するとキャンバスの上も吹雪始めた。吹雪は何枚もの キャンバスの上を吹き荒れて数日後におさまり、外は静かな冬景色になった。キャンバスの上にも白い冬景色が現れた。
春が来て、夏が過ぎ、それから秋 になって冬景色の絵は完成した。完成した絵はベシャラット画廊が買い上げてバルビゾン村の画廊に常設展示した。
そして僕は日本酒とみりんの「違いがわかる男」になり、雪の上で転がりまわることもなくなった。

与座 英信

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