川底の石を踏みはずし、母の身体がゆれるたび妹の叫び声があがる。爺さんが教えてくれた岩付近まで来ると、水かさはちいさくなりぼくの足の膝を隠すほどだった。
母が立ち止まって後を見た。さっきの爺さんが両手を振っていた。
「ほら頭を下げなさい」
母に促されてぼくも腰を折った。百メートルほどの川幅のほぼ半分まで進んでいた。これからは浅瀬が続くのだろうとたかをくくっていたが、岩を過ぎると再び水かさが増し一気にぼくの首まで水につかった。
母の背にいる妹も尻まで濡れている。恐怖のあまり声を失ったのか妹は眼をつむり母の肩をしっかりと握っていた。いきなり母が前のめりになった。顔半分が水につかり自由のきく右手をばたつかせている。そばに近寄ろうとするが爪先立ちで歩いているぼくも簡単には動けない。
「母ちゃん!」
ぼくは必死に叫んだ。母が泳げないのは知っていた。そのぼくとて犬泳ぎで数メートル進むのが精一杯だった。異変に気づいた妹の朝子が母ちゃん、母ちゃんと叫んだ。母の身体が流されたのはその時だった。左手にしっかりと握っていた荷物と一緒に母が流された。ぼくは懸命に手を伸ばした。母の服が指先にかかった。ぼくは必死で引いた。水の圧力が指先にかかる。それ以上は耐えられないと諦めかけたとき、母が顔をあげた。そして大量の水を吐きだし激しくむせた。髪の毛から水がたれていた。街の美容院であてたパーマはあと形もなく消えていた。
母は悪夢を振り払うように、ぼくを見ることもなく水の中を進んだ。一時は最悪な事態を想像していたぼくも母の後に従った。
向こう岸に渡りおえて対岸をみると、さっきの爺さんがのびあがるようにして大きく手を振っていた。母が大きく何度も頭を下げるのを見て、ぼくもそれを真似た。妹の朝子は買ってもらった人形を自分の服で拭いていた。爺さんの背後の森に一条の陽光が差していた。
「あれがテダーのパンだよ」
ぼくは母の優しく語る言葉を聞きながら涙ぐんでいた。