戦後書きかえられた八重山農林高校校歌

●広く愛される農高校歌
 八重の潮路に囲まれて~
 八重山農林高校の校歌は時に校歌の域を超え、三線・太鼓で賑やかに歌われることがある。卒業生で民謡歌手の大工哲弘も自身のCDアルバムに収録し「八重山の歌」だと述べているほどだ。
 八重山で最も歴史の長い高校、県立八重山農林高校は昭和十二年(1937)創立で今年で七十七年目を迎える。男女共学のモデルとして開校し初代校長は伊江島出身の島袋俊一。島袋校長は赴任地の八重山に深い情を示し、教え子たちからも慕われていた。それを物語るように、正門近くには胸像が建立され、現在も命日には卒業生のみずほ会員が集う。
 
●詩人・伊波南哲に依頼した歌詞
 「八重山農学校校歌」。当時はそう呼ばれていた。開校2年目の昭和十四年四月「かねて伊波南哲氏に依頼せる同校校歌が先便にて到着し生徒職員を驚喜せしめてゐる」と先島朝日新聞は報じ、歌詞を掲載している。しかしそれは現在の校歌とは異なり語句の差し替えが随所にある。さらに三番は全削除され新たに五番が誕生している。

●新聞に掲載された校歌歌詞
 八重山農学校々歌(昭和十二年)
一 八重の潮路に囲まれて
  燃ゆる大地の八重山は
  無限の宝庫に埋れつつ
  若き勇士をさし招く
二 白雲漂う於茂登岳
  裾野に分けいる宮良川
  自然の恵みいと深く
  愛郷愛土の血がたぎる
三 瑞穂の国は神代より
  土に親しむ習ひあり
  我らが踏めるこの土も
  遠き祖先の遺産なり
四 晨に白露夜は星
  いただきながら農産の
  道を究むる学窓は
  ただひと筋のまことのみ
五 すめらみくにゝ生をうけ
  国を富まさん土の民
  いざ身を殉じて農業の
  いさをし永久に打ちたてん
(『石垣市史 新聞資料集成Ⅳ』より)
 軍国主義の時代である。八重の潮路、於茂登岳、愛郷愛土も皇国の土の民として身を殉じ国益をあげようと集約されていく。南哲はどんな思いでこの詩を書いただろうか。

●三代目校長・高良鉄夫氏の記憶
 戦後どんないきさつで歌詞を変えたのか、戦後最初の校長・高良鉄夫氏へ問い合わせたことがある。返信には自分の代では改正していないが「米国民政官のようなラブレス氏は通訳官を農林高校へ派遣し、農高の校歌は軍国主義だから改正しては如何」といわれた。断ったが、再度呼び出され改正を要請されたので「検討後改正したい旨を同意してさよなら」と書いてあった。
 校歌の修正に民政府が関わっていたことがわかる。登野城小学校、波照間小学校も戦後校歌が修正されている。
 
●新たに登場した異質な五番
 青空高く大鷲の/翼ならして羽ばたけば/輝く真理の朝ぼらけ/これぞわれらの望みなれ
 四番までとは趣の違う歌詞が現在五番として存在している。登野城、波照間小学校では戦後教員が修正していることから、この五番も南哲の詩ではない可能性が高い。
 改めて五番を見て見ると戦争や抑圧から解放された喜びにあふれた詞だ。「輝く真理のあさぼらけ」と希望を持っただろう。あれから七十年。私たちはそれらの教訓を活かせているだろうか。

八重山資料研究会 山根 頼子

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