慶田盛京子さんの母・岸本榮さんの一周忌を機に、アルバム「岸本榮への思い 母へ。」を制作した京子さん。アルバムをつくろうと思ったきっかけ、そして京子さんの母への思いを伺いました。
▼アルバムをつくろうと思ったきっかけを聞かせて下さい。
今年の6月3日に母の一周忌を終えたのですが、私たち子どもでさえ、母との思い出というものはだんだん薄れていくんですね。そのため、おばあちゃんはこんな人だったんだ、川平の公園茶屋を始めたのはおばあちゃんだったんだと、孫やひ孫たちにどうにかして伝えたいと思っていました。
▼京子さんから見て、母・榮さんはどのような人でしたか?
母は農家生まれの農家育ちでずっと農業をしていたのですが、父が体を壊したときに持っていた農地を売り、そのお金で川平の公園の近くの土地を買って公園茶屋を始めたんです。学歴もない田舎のおばぁだったけど、そのような開拓精神がありましたね。
父は戦争から戻ってきて母と結婚したのですが、私たちには戦争の話をしたことがありませんでした。しかし父は傷痍軍人で、田んぼの苗を植えていると手が痛み、泣いている姿を見たこともありました。母は戦争中に防空壕で過ごしていたことや、川平に来ていた兵隊との関わりなどをメモに残しており、その内容もアルバムに載せています。少しですがそういう両親の戦争体験も資料として残しておきたいなと思ったんです。
▼お母さんとの心に残る思い出を教えて下さい。
母はとても好奇心が旺盛で、施設に入っていたときも一緒にドライブに行ったり、旅行に連れて行ったりしていたんです。しかしそんな母がいなくなってしまうと、ふと母の素晴らしさが蘇ってきました。私は長女なのでよく叱られていたんです。しかしそんなことよりも、子どものころ運動会ではほかの家と違う料理を作ってくれたことや、蚕を飼っていて、商品にならない繭で私たちの服を作ってくれたりとか、母が亡くなったことでそういうことが消えてしまうような気がしたんです。自分の親を素晴らしかったんだと人に言うのは恥ずかしいですが、形にしておくことが大切だと思いました。
▼一冊のアルバムにまとめるのは大変でしたか?
アルバムをつくる過程では、載せる写真を選ぶのが大変でしたね。どの写真が親の人生を表しているのかすごく考えました。アルバムには川平の婦人会や、老人クラブの集合写真なども入れ、また公園茶屋がオープンしたときの写真なども載せました。公園茶屋は当時掘っ立て小屋から始まったんです。外国の人たちもよく泊まりに来ていたみたいで、母は言葉がわからなくてもジェスチャーでやりとりして、中には長期滞在する方も多かったみたいです。また、今では検証することができないのですが、「八重山そば」というメニューは自分が名付けたとよく言っていましたね。
▼両親との思い出を振り返ってみて。
母は親としてだけでなく、地域のいち婦人としても素晴らしい人でした。アルバムが完成したときに、私の家族や親戚からは、あらためて思い出を振り返ることができて涙がでたと喜んでくれました。私たちはまだまだ親の足元にも及びませんし、自分たちの両親は世界一だと思っています。そういう思いをアルバムにして残すことができてよかったです。