竹富島のタナドゥイ(種子取祭)は二日間で約七〇余もの芸能が奉納されるというから驚きである。舞台芸能は、儀礼的なリーキョンギン(例狂言)を中心に舞踊の数々が奉納され、絶妙なタイミングでバラシキョンギン(笑わし狂言)が挿入され、まったく目が離せないプログラムに構成されている。
玻座間村民俗芸能保存会の提供による演劇「村勝負」は、在番(役人)が竹富村と崎枝村の役人を呼び寄せる場面から始まる、バラシキョンギンである。
在番は二人に各村の暮らしぶりを報告させる。その後、各村の自慢話を乞い求める。最初、竹富島の役人が「竹富島には《しきた盆》という優れた内容と節まわしの面白い歌がある」と自慢する。それに応じて崎枝の役人は「崎枝村には《崎枝節》といって、竹富村の《しきた盆》より面白い歌がある」と答える。
在番は「是非共うたてぃ聞かしとらし」といって、数日後さっそく歌の勝負となる。竹富島は前我名マンダルが《しきた盆》、崎枝村は南風成屋ぬブナリが《崎枝節》を朗々とうたう。両役人は在番に歌の意味を解説するが、この勝負は竹富村の勝利に終わる。観客はやんややんやの大喝采。それもそのはず、ここは竹富島の種子取祭の舞台、崎枝村にとってはアウェイの地なのである。
負けた崎枝役人は力勝負をしたら絶対に負けないといって精一杯強がってみせる。そこで竹富島からは新里比屋久、崎枝村からは前盛屋真多が選出され、石持ち勝負をすることに決定。そこで力石の登場である。その重さは何と二百貫。一貫は三七五〇グラムだから、二百貫は七五〇キログラムになる。
不真面目な崎枝村の男に対して、真摯な態度で勝負に臨む竹富島の新里比屋久。「勝つぁしーるよんし、力ゆ貸らし、過ちねんよーし、守りおーりとーらーなーら」と那須与一よろしく、六山・八山の神々に勝利の祈願を捧げ、見事に石を持ち挙げる。これに対して崎枝村の屋真多は掛け声ばかりが勇ましく、持ち上げようとした石の下敷きになる始末。
屋真多は比屋久に助けられても尚、「まだまだ負けないよ」といって意地を張る。名誉挽回と腕相撲で再度挑むがまたもや負けてしまう。それなのに、「勝負なし」と捨てゼリフを放って退場する。何度みても楽しい場面だ。
ところで、喜宝院蒐集館の庭先に大きな石が無造作に鎮座している。この石は「村勝負」に由来する力石である。また、登場人物の新里比屋久は、人頭税時代の伝説の力持ちでもある。
親里比屋久は、グムチ俵を取り扱うにあたって、若者の体力増進を奨励するため、石垣島にある於茂登山から流れるナナンガーラにある、麦色の円形をした石を二個持参し、村番所の庭に置いたというほどの力持ち。島の若者たちは、それ以来、比屋久にならって力石を用いて体力づくりに励み、年貢上納俵を容易に扱ったとの伝承である。
ちなみに、その石のうちの一つは一四〇斤でグムチ俵二俵分の重さだという。もう一つは七〇斤でグムチ俵一俵分の重さだったとのことである。
このように「村勝負」は、新里比屋久の伝説をベースに仕立てられたキョンギンだと考えられる。
戦前のタナドゥイでは「石持ち狂言」の題名で演じられていたが、一九八一(昭和五六)年に新井潔氏によって脚本が整理された。そして同年のタナドゥイで、新井潔、新盛武雄、東里悟の三氏が中心となって復活上演され島人に喜ばれた。
また「村勝負」は、沖縄本島の首里、石垣島、竹富島それぞれの方言が役柄を表わしており、これが舞台上で錯綜するのも見ものである。器用なテードゥンヒトゥ(竹富人)の芸人魂が炸裂する演目である。